熱い。蒸し暑い。地球温暖化ほんまに死ね。これからは氷河期が流行ワードや。ぶつぶつ悪態を言ってみても気温は下がりそうにもない。4月も暮れの日、大阪は熱かった。やたらと熱かった。熱い熱いというだけで何も対処ができないのは、今日が運悪く服装検査の日だからだ。汗をかくのは嫌いだけれど我慢して冬服を着てきた。衣替えなんて面倒なモン作るからあかんねん。仕方なくピアスも外してきた。説教に時間食われて部活に出られないなんて格好悪いじゃないかと悪友に笑い飛ばされたからだ。アイツの言うことを素直に聞くのは正直言って非常に腹立たしいことだけれども、今日ピアスをしてきて先生に説教食らって翌日アイツがまたげらげら笑うよりもまだ俺の名誉は保たれるような気がする。

「財前今日も機嫌絶不調やな」
「誰のせいや思てるん」
「オサムちゃん」
「自分のことは棚に上げてよう言うわ」
「せやかて、ピアスで機嫌変動するわけないやろ自分」

からからとソイツは他人事みたいに笑った。女子制服のスカートの丈を短くするには裾を切らないといけないらしく、服装検査がどうこうと急に言われても直せないのだと開き直っている。事実、コイツのスカートは膝より10センチくらい上でひらひらと揺れているのだ。

「自分はええなあ軽装備で」
「せやろ。なんならワンピース着るか」
「冗談でも嫌や」

何や財前つれないなあとアイツはわざとらしく肩をすくめた。今更何をかわいこぶってんねん。教室の扉から見えた廊下ではユウジ先輩が歩いていて、アイツがそれを目で追っているのも視界に入って、そんなことでかわいこぶってんのか気色悪いと思った。ずいぶん前にコイツは「一氏先輩が好きなんや相談に乗ってくれへん?」と俺に話しかけてきた。俺目当てやないんやったらええか、そう思って俺は彼女の相談に乗るのをとくに拒んだりはしなかった。ちなみにこの間、アイツも俺も真顔かつ無言である。

「先輩に告白するんか」
「そないなことウチが出来る思てんのか」
「微塵も思てへん」
「自分はほんまに冷たいな」

薄笑いを浮かべながら彼女は目を細めた。きゅっと吊り上げられた目元。俺はそれを見てぎょっとした。
誰やコイツ、そう思った。目が笑っていなかった。先輩のほうなんて見てすらいなかった。会話するのに相手の目を見るのは常識のはずなのに、ただ形式的に細められただけの目は俺を威圧するのにじゅうぶんな威力を誇っていた。湿る粘膜でうまくごまかされていたが、瞳に映っていたのは廊下を歩くユウジ先輩ではなく俺だった。

「どしたん、財前」

アイツは小首を傾げて俺の顔を覗き込んできた。そのしぐさが急にわざとらしくて胡散臭いものに見えて俺は気づかれないように身震いした。目の前の女はいつからこんなバケモノになったんだ。熱い熱いとぼやいていたはずなのに、背中を伝ったのは冷や汗だった。

女は恋をすると化けるという。話しかけてきたときには荒れていたはずの髪がいつのまにか艶めいている。くるくると巻いた髪は乱れることなどない。唇にひびが入ることもなくなった。目元には生身の体ではありえないような色が付くようになった。そして、俺を見る目がだんだんと熱くなっていった。ああコイツ先輩のことダシに使いよったんやな、今更気づいた。これだから女は嫌いだ。


そんなことを悪友に報告してみても何も効果はない。「へーそうやったんそりゃ大変やったなあ」くらいの感想しか得られない。それらはすべて生返事で、彼女は購買のいちごみるくをストローで吸い上げながら無表情で相槌を打つ。なぜこのという女と悪友になったのか、たぶん明確なきっかけはなかったのだと思う。

ただ、は恋をしても化けなかった。それが違う。

は入学式の日に、俺に一目惚れした、と言った。今と同じように淡々と。は入学する前からスカートは切り詰めてしまっていて、髪は染めていて(色素の薄い髪を黒く染めたらしい)、ピアスをつけていた。もうこれ以上変わる要素がなかったからかもしれない。それでも、あの日俺に、昨日の夕飯なんだった?と聞くのと同じ調子で、俺に一目惚れした、と言ったときから彼女の態度は変わらなかった。彼女の気持ちは一年経っても変わらないようだったし、俺も彼女を好きになることはなかった。

ただ、今日のは少し様子がおかしかった。
したたかな彼女は小さなミスは犯さない。その彼女が今日は何もないところで転んだり課題を忘れてきたりいちごみるく用の金を忘れてきたりしたのだ(いちごみるくは今日は俺の奢りだ)。さすがに怪しいと思って尋ねると、「ここじゃあみんな聞いとるから、あとでな」と意味深な一言を残してチャイムとともに自席へ戻ってしまった。おかしい。

「何があってん」

が鞄を抱えて教室を出ようとしたところをぎりぎりで捕まえて、そのまま屋上まで引っ張っていく。ポケットからかなり前に職員室から拝借してきた屋上の鍵を出して、がちゃりとドアノブを捻る。ぶわあっと蒸し暑い風がなだれこんできた。不快だ。

「別に、なーんも」
「嘘つけ、今日めっちゃおかしかったで自分」
「気のせいとちゃうん」
「早よ答えてくれへんか」

イライライライラ。目の前で視線を泳がすにむしょうにイライラする。とくにに非はないけれど、彼女の一挙一動に神経を逆なでされるような気分なのだ。この熱い中短いスカートを風にはためかせて涼しそうにも見えるに腹が立った。くだらないことにイラつく自分にも腹が立った。熱すぎて、あの女が言っていたとおり機嫌は絶不調だ。


「…私、好きな人できたんや」

低い声に竦んだのかは絞り出すように言った。俺は硬直する。日差しが刺すように痛いはずなのにうすら寒く感じた。
なんでや。コイツは俺に惚れとったんやないんか。うぬぼれた単語が脳裏を駆け巡る。はあくまで、俺に一目惚れしたのだと告げたときと同じように淡々と言葉を紡いだ。

「誰」
「ユウジ先輩」

またあの人か、と思ったのは俺だけだ。あの人は無自覚のうちに俺を面倒事に放り込んでいっているのではないのか。先輩の名前を聞いて黒くどろりとした感情が心臓の底でゆっくりと首をもたげたのを感じた。は無表情のまま、なんで惚れたか聞きたいか、と聞いてきた。アホかそないなこと聞きたない、と心臓が悲鳴をあげていた。俺が何も言わなかったのを無言の承諾とみたらしいはまた淡々とユウジ先輩の魅力を語りだした。俺の理性が持ったのは、そこまでだった。

何の前触れもなく、俺はの唇に噛み付いた。淡々とした声がくぐもって俺の口の中に飲み込まれる。は見たことがないほど驚きを顔に出していた。話していたの口が開いていたのをいいことに、俺は彼女の口の中に舌を突っ込んだ。隅から隅まで舐めて全部俺のものにしてやろうという考えがよぎって、息苦しそうに喘ぎながら俺の胸を叩くを見ながら俺って最低やなと思った。すると舌にびりっと鋭い痛みが走る。その拍子に俺が彼女を解放すると、彼女の手からは鞄があっけなく落ちた。涙目で口を拭っている。口の中に血の味を感じた。

「…なに、してくれてんねん、財前」
「…ほんま、何してんのやろ」
「ファーストキスやったんけど」
「そんなん知らん」

しれっと言いつつ内心は自己嫌悪でいっぱいだった。何昼間っから盛っとんねん自分、かっこわる。
はもう淡々とは話せない状態だった。頬は上気して赤いし、声は上ずっている。涙目は拭っても拭ってもうるみっぱなしのままのようだった。

「私はユウジ先輩が好きになったんやって、言うたよな」
「言うたな」
「じゃあなんで今更キスなんかしてんねん」
「…が」

がそんなこと言うからや。飲み込んだセリフは言葉の途中で消えた。に惚れてなんていないはずだ。この一年間コイツにだけは落とされるもんかと半ば意地になって悪友というカテゴリに収まり続けたのだから。
はようやく涙を拭い終えて、きっと俺を睨んだ。感情のこもった目でから見られたのは、初めてのことのような気がする。ずっと俺のことが好きだったわりには、それは不自然なことなのではないか。キスしたことへの罪悪感や後悔よりも、今日の調子がおかしかった理由が気になった。そういえば質問には答えてもらっていないのだ。

、さっきの質問やけど」
「うるさい」
「ユウジ先輩が好きならそない狼狽えることあらへんやろ。なんで今日おかしなっとったん」

睨みつけると俺の背中を汗がつうっと伝った。はどんより曇らせた目を伏せながら口を震わせる。何か言おうとして、やめる。それが焦れったくて「またキスしたろか」なんて冗談を言うと、は意外にも挑発的な目で俺を見てきた。口角を生意気に吊り上げるはアイツと同じように女らしかったけれど、不思議と不快感は生まれなかった。むしろその余裕を俺の手でぶち壊してやりたいと思った。


「ふふふ、嘘」

は言った。目は笑っていなかった。アイツと同じ表情なのにいやに魅力的だった。ほんまはね財前に告白する気でいたんやけど、なんて笑うに惚れた俺も相当趣味が悪い。ぎらつく太陽のせいで心臓はささくれ立っていた。



深海に堕ちるラブロマンス
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