またねという言葉は便利すぎると思う。さようならを言うにはなんとなく気後れしてしまうとき、また会おうと言いたいとき、とりあえずその場を終わらせることができる。どんな正直者だってそんな些細に人の心を引っ掻く言葉をさらりと口にできるものだ。さようならではなくまたねと言われたら期待してまうやないか。ずっと友達でいてなまた会おうな、なんて手を振った友人とは二度と会わなかった。人間なんてそんなものだ。俺はこのとおり擦れきってしまっているのに彼女は飽きもせず俺に付き合ってくれていた。なんで?と聞けば、うん居心地いいから、ときまって彼女は言う。彼女はいつも別れ際にはまたねとは言わなかった。じゃあねと言うのだ。帰り道で死ぬかもしれへんやろ、と屁理屈っぽく彼女は繰り返した。あのぐだぐだだらだらした関係は確かに居心地がよかったし気兼ねする必要がなかった。今さら惚れてたかもなあとちらっと思ってたりもする。彼女は美人だったし凜としていた。男女問わず人気があったのも知っている。だからこそどうして俺なんかに構ってくれていたのかわからない。

「ココアくれへん?とびっきり甘いのがええ」
「自分医者に糖分摂取止められてたやろ」
「糖分取ろうが取らんが私死ぬし」
「死ぬ死ぬ言うたらあかん」

自分こんなときまで横暴なんやな、彼女は眦を下げてくつくつと笑った。ひゅうひゅうと鳴る彼女の喉が痛々しくて泣きたくなった。心電図の音が耳障りながらも彼女が生きている証だった。滴る点滴を腕にぐさりと刺した彼女は余命いくばくも無いと宣告されていた。それなのにいつも通りへらへらしていて、もしかしたらこいつ死なないんやないの、とか希望を込めた考えが頭を過ぎったりした。

「私きっとそろそろ死ぬ」
「嫌や」
「嬉しいなあ財前がそない悲しんでくれるなんて」
「当たり前や、嬉しいやろ」
「…私よか財前がピリピリしとるやん」

死ぬの私なんやでと笑う彼女は少し悲しそうだった。

「私きっと明後日死ぬわ。明日中に容態急変するわ。だからメッセージなら明日までに残してな」
「何アホなこと言うてんねん」
「手紙ちょうだい」

真摯な目だった。彼女の瞳孔の中では一つの世界が渦巻いていた。俺もその世界に混じりたいと思った。彼女の言ったことが嘘でないなら、翌々日にこの世界が消えてしまう。それがむなしくて、おう、と頷いた。声が震えていなかったことを祈る。

手紙を書こうと思って文具屋に寄った。彼女の好みなんか何も知らなかったことに気がつく。あんまりファンシーなの渡したら引かれるよな、とシンプルなそこら辺にあった便箋をつかみ取って買った。店からの帰り道に何を書こうか考えたけれど、言いたいことがなかった。今までありがとうとか忘れないとかそういう平凡な美しい言葉は並べる気にならなかった。こんなところに書くほどの思い出もなかった。結局何も書けなかった。


***


次の日も高校を休んでまで彼女に会いに行った。家を出る直前にボールペンで一言だけ走り書きした便箋を封筒に入れて。彼女の病室の前はたくさんの看護師や医者で溢れかえっていた。皆暗いやるせない顔をしていた。幽霊みたいだった。心臓がいやな汗をかくのがわかった。医者たちの隙間から見えた彼女は昨日はつけていなかったはずの透明なマスクをつけていた。酸素を吸入させる器具だろうか。

渋い顔した医者たちが嫌そうに面会を許可してくれた。プラスチック製のマスクは彼女が呼吸するたびに曇った。彼女の喉がたてるひゅうひゅうという空気の音は昨日よりも大きいノイズになっていた。彼女は目だけ動かして俺を見ると小さく笑った。昨日よりも不健康そうなか細い声だった。

「財前か」
「おう」
「言うた通りやろ」
「…おう」
「手紙書いた?」

俺は無愛想な無地の封筒を差し出す。堪忍な手ぇ動かへん、と彼女は今にも泣きそうな声で言った。昨日まであんなにへらへらしていたのに今日は別人のように弱々しくて消えてしまいそうでこっちまで泣きそうになった。

「読んで」
「嫌や」
「何、恥ずかしいんか。今更恥ずかしがることもないやろ」
「…言うたら自分、死んでまう気がすんねん」

躊躇った末に言うと彼女は少し目を見開いて、それからその目をきゅっと細めた。最後に話す相手が財前なら構へん。だから、言うて。驚くほど穏やかに彼女は言った。また俺はさんざん躊躇いその末にようやっと、

「愛してる」

ため息と同時に吐き出した。彼女の心拍が少し速まったのを心電図が教えてくれた。機械はバカ正直で困るわ、彼女は悲しそうに笑った。

「そんだけ?」
「そんだけ。改まって手紙に書くほどのことでもないな」
「ううん、嬉しかった」

彼女の目から涙が溢れた。俺の視界も一瞬だけ歪みかけたが理性で涙を引っ込めた。財前、とかすれた声が呼んだ。細い小さな手が行き場所を探すように震えていたので握った。彼女は弱々しく俺の手を握り返して、

「コレ取って。んでキスして」

と息巻いた。辛そうなのに、今まで聞いた彼女のどんな声よりも一番艶めいた声だった。プラスチックのマスクを取り外したい衝動にかられたが、ひゅうひゅう鳴る彼女の喉の音を聞いて押し止める。

「ええの、明日は親来るからできへんから」
「殺したないねん」
「財前に殺されたいわ」
「俺に殺人罪かぶって生きろ言うんか」
「それもそうやな」

でもこれが最後なんや。最後くらいわがまま言ったってええやろ。ぼろぼろとシーツに水滴をにじませながら彼女は訴えた。心が揺れに揺れた結果、一瞬だけだ、と自分に言い聞かせてマスクに手を伸ばした。湿った唇に自分のそれが触れた。体温があった。彼女はまだ生きていた。掠める程度に済ませ、マスクを再びかぶせた。

ひゅうひゅうという風の音はマスクを外す前より少し大きくなっていたが、じっと見ているとその音も今まで通り息をひそめた。

「明日でさよならやな」
「せやな、俺の大告白も意味なかったくらいにはすぐ死んでまうんやな自分」
「ごめんなあ…」

彼女の涙は止まらなかった。ものも食べられないような状況の中でそんなに大量の涙に変えられるくらいの水分が残っていたことに俺は幽かな希望を抱いたけれど、彼女は翌日本当に死んでしまう気でいた。定期的に滲みかける涙は押し殺した。彼女の前で泣きたくなかったし、泣きたいのは彼女だと思った。

「もう帰らなあかんのやろ、財前」
「せやけど」
「ええんよ、自分に愛してる言われるなんてな、世の女の子が阿鼻叫喚するで」
「阿鼻叫喚するんはまだ早いわ」
「せやな、自分と私がこれで付き合うことになっとったらな」
「自分ほんまに明日死ぬんか」

わずかな希望に縋り付きたくて尋ねた。すると彼女は大きく息を吸い込み声を震わせた。透明なマスクは曇って真っ白に変わった。

「死にたないわ。私生きてたい。財前と付き合えるくらい元気になりたいわ。そんで女の子たちの前で大っぴらにキスして泣かせたいわ。私財前とハグもしてへんのに。まだ好きって言ってへんのに。結婚だってしてへんのに。なんで私が死ななあかんねん」

俺は言葉を失った。俺ってなんでこんなに無力なんやろと打ちのめされた気分だった。彼女は小さく咽んだ。へらへらと笑っていた彼女はどこにもいなかった。いるのは俺の手を握って泣き続ける彼女だ。慰めの言葉をかけるほど俺は余裕がなくて、彼女の手をいっそうきつく握りしめることしかできなかった。

「財前、おおきにな。私のこと愛してるって言うてくれた男の子なんて財前だけや」
「当たり前や、俺以外の男にそんなん言わせへんから」

だから生きたって。死なんといて。俺らしくもなく素直に吐き出しても彼女はうわごとのようにおおきになすまんなと繰り返すばかりだった。


***


翌日は快晴だった。からっと晴れていて近所のおばちゃんが洗濯日和やな光ちゃんといらん迷惑で声をかけてきたので軽く受け流して、俺はやっぱり高校を休んで病院へ急いだ。彼女の病室のまわりには彼女の親戚らしい人がぞろぞろ集まっていた。彼女の両親もいた。母親はすすり泣いていて、父親が唇を震わせながらなだめるように肩を支えていた。俺と彼女も生き延びられたら結婚してたんかなと麻痺しかけていた頭でぼんやり考えた。それもむなしかった。

人だかりの中に彼女はいた。心電図は肩身狭そうに鳴っている。昨日まではなかった喉につながるパイプや全身につながる管が彼女を覆っていた。生きているというより生かされているというほうが適切なように思えた。ぼんやり薄く開いた生気のない目が動いて俺を見た。出る涙ももう残っていないらしく、彼女の目はただ機械から発せられる光のせいできらきら輝いていた。彼女の父親が「行ってあげてください」と促したので、俺は彼女に近づく。昨日と同じように手を握ってみたが、彼女が握り返してくれることはなかった。曇ったマスク越しに彼女の唇が動いているのに気づき、俺は何も言わずに彼女の顔を見た。

「あ い し て る し ぬ ほ ど あ い し て る」

俺の目が正しければ彼女はそう言っていた。そんなことはわかっとると彼女にしか聞き取れないだろう声量で呟くと彼女はゆっくりと微笑んだ。

「さいごにあえてよかった」

声にならない言葉は俺にしか伝わらない。まわりの人が息をのんで俺たちを遠巻きに見つめていたのはわかったがそれをわざわざ見ようとは思わなかった。

「またキスしてよ」
「アホか」
「ひどい」
「いつものことやろ」

彼女の母親がすすり泣く声と心電図の鈍る心拍の音と医者がパタパタ走る音がぐわんぐわんと俺の耳で鳴り響いた。彼女だけが鮮明な映像として俺の網膜に映っていた。

「ざいぜんありがとうあいしてる」
「俺もや」
「ごめんね」
「そういうのはいらん」
「いうとおもった」

彼女はしばらく言葉を探すように口をぱくぱくと動かしていたが、だめやもうそろそろやと独り言のように言った。声は聴けなかったので本当かどうかはわからないけれど。

「ざいぜん、すき、ありがと、あいしてる」
「うん」
「さよなら」

光を乱反射させていた瞳が静かに閉じられた。握りしめる手から血の気が抜けたように感じられた。心電図がここぞとばかりに耳障りな高音をロングトーンで鳴り響かせる。彼女の母親はわっと泣き崩れた。

「アホ、そこはまたねって言わな」

彼女だけではなく彼女が発していた言葉すべてが死んだんだなと思った。自分が立っているのかも泣いているのかもわからなかった。最後まで男の趣味悪いなと冗談を飛ばしてみたけれど彼女は動かなかった。むなしいとかそういうのを通り越して胸くそ悪かった。自分の喉がひゅうひゅうと鳴った気がした。



不都合なさよなら





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