わたしは少し斜め向きのポーズをとって穏やかに微笑んでいるくらいがお似合いの女だ。自他ともに認めるそういう女だ。女かどうかすらもよくわからない。ただわたしは人間でいうところの女性らしい顔だちをしており、おまけにそれは人間から見るととても美しいという話を聞いたというだけだ。わたしの目の前でわたしを食い入るように眺めているのはヘルメットこそかぶっているけれどその中身はまったくのがらんどうという奇妙な西欧の妖怪だ。体つきは魅力的な女性なのだけれど、彼女には首がない。優雅に微笑む顔と胸しかないわたしとはなんだか真逆の存在であるように感じられた。しかしその思いつきを彼女に伝えるすべをわたしは持っていない。なぜならばわたしは一枚の絵画と呼ばれる存在だからである。

物心ついたときからわたしには胸から下が文字通り存在していなかった。わたしと初めて対峙したのはきっと画家なのだろうけれどわたしはもう自分の生みの親の顔を忘れてしまった。誰だったのかはもうわからないし、教えてもらうこともできない。はたして自分が何年前から存在するのかも知らない。眠ったことはないから一日がどれくらいの長さなのかもよくわからない。人間中心の世界に絵画として生きるのは、ひどく無知な存在がまわりに生かされているのと同じようなことだ。

そんなわたしは今、「イケブクロ」というところのとあるマンションの廊下にかけられている。今のわたしの知る世界はこれっきりだ。フローリングの床と白い壁、ときたま通る白衣の男と首なし女、それからファー付きコートの男と、ガスマスクの初老の男と、バーテンダー。ときどき訪れる「患者」たちは初めのうちこそわたしをまじまじと眺めているけれどもすぐに飽きてしまって、包帯を巻きつけるなりなんなり適切な処置を施されて、しまいにはわたしに見向きもせず帰っていく。もうそれでいいと思った。興味のない人間に好かれても困る。わたしを愛してくれるのはあの人だけでいいのだと、そう心に決めた相手がいるからだ。

キシタニシンラ。白衣の彼はそういう名前らしい。わたしが彼の父親のガスマスク男に買われたとき、幼かった彼は一目散に駆け寄ってきてぱあっと目を輝かせ、「この絵綺麗だね、大きくなったらこの絵をちょうだい」とねだった。美しい美しいとまわりから賞賛されているのは知っていたけれど、その裏であの絵はどことなく不気味だと批評されているのも知っていた。だからこそ素直に綺麗だと言われてつい頬が火照ってしまった。もちろんその表情の変化は人間には読み取れない。そのはずなのに、シンラはふたたびぱあっと目を輝かせて確かに、

「あはは、照れてる」

そう言ったのだった。わたしのことをここまで理解してくれる人間はそれまでもそれからも現れることがなく、わたしが彼に惚れ込んでしまうのにもそう時間はかからなかった。

大人になった彼は本当に父親からわたしを譲り受けた。新居の廊下にわたしを飾ると彼は誇らしげに腰に手を当てて、やっぱり君は美しいなあといともたやすく殺し文句を口にするのだった。彼の家へやってくる患者や知り合いには必ずと言っていいほど「この絵、綺麗だろ?」と得意気に尋ねるのがまた愛しくて仕方がない。黒服の首なし女はそうやってひっきりなしに尋ねる彼をみるたびほとほとあきれたように肩をすくめるのだった。

―――いつからだろうか、首なし女の挙動がそれまでと変わったのは。
彼女が「イケブクロ」へとやってきた目的は自分の首を奪還すること。早く自分の首を回収しなくては、早く、早く…そう何かに急き立てられるかのように日々焦りを垣間見せていた。あまりにもそれが悲痛で、わたしもシンラも彼女のためにできる限りのことをしようと各々が誓った。わたしは動くことすらできないから、いつもより三割増しほど魅力的に笑むことを心掛けた。シンラはシンラで彼女を落ち着かせようと奮闘していたらしい。

しかしそれがある日を境にがらりと変わったのだ。廊下をたまに通過する彼女しか知らないわたしでも判るほどに彼女は変わっていた。それまで重くのしかかっていた肩の荷が下りたような、そんな振る舞いだった。それはとても喜ぶべきことだとは思ったのだけれど、その日から変わったのはセルティ…首なし女だけではなかった。
シンラもまた表情が穏やかになった。セルティに落ち着きがなかったり彼女がイライラしているときは彼も眉間にしわを寄せていた。彼には似合わない険しい顔をする回数が格段に減ったのだ。セルティの心にゆとりができたことが要因かもしれない。それでもさきほど言ったように彼らの変化がわたしにとってある意味でありがたくないように思えたのにも理由がある。

シンラがセルティを見つめるまなざしが甘いのだ。わたしが長い間渇望していた彼からの無条件の愛情のありったけがそのとびっきり甘いとろけるような視線に詰め込まれて送られているような、まるで恋人同士のようなまなざしにわたしは生涯で初めて嫉妬という感情が心の底で燻るのを感じた。わたしのような淡く軽い水彩で描かれた絵画ならば到底抱かないような黒くどろどろと粘ついた醜悪な感情だった。

笑顔が引き攣るのを感じた。首なし女がわたしの目の前を通るたび、通るたびに。数百年、いやそれ以上なのかそれより少し短いか、ともかく人間からしてみれば気の遠くなるほど長い間ずっと完璧な笑顔をたたえ続けてきたわたしの顔。それが引き攣っている。今までどれほどの人間がわたしを見てほうとため息をついたことだろう。今までどれほどの人間がこの出来すぎた笑顔を気味悪いと評したことだろう。そんな完璧な笑顔が引き攣っている。シンラさえも「あの子、なんだか最近おかしいような気がするんだ」と首をかしげた。憎たらしいあの首なし女の体を抱きながら。あいつのないはずの耳元に、何か甘い吐息を吹き込みながら。

「愛しているよ、セルティ」

そのことばがわたしの耳に届くのに、さほど時間はかからなかった。すなわちそのことはわたしの世界の崩壊を意味した。笑顔がなんだ。美しさがなんだ。そんなものがあったって、あの首なしの化け物にすら勝てなかった。勝てるはずがなかった。だって、わたしにはことばがない。声がない。呼吸がない。命がない。あるのは魂だけのただの平面図形。今までの長い長い年月、ほめそやされ畏怖の念を向けられ、ついには忘れてしまっていた真実を思い出した。油絵の具で塗り固められた頬の表情筋がまともに笑みを浮かべることはもうない。嘘を知った白い魔女はもう魔法を使えない。魔法なくして、長い年月を過ごしたわたしが笑うことなどできないのだ。

「セルティ、この絵、やっぱり何か恐いよ。……いっそのこと売ってしまおうか」



笑わない魔女



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