九州から引っ越すのはなにかと大変だった。なにより遠いし、荷物を運び込むのも一苦労。入ったテニス部も腑抜けた顧問や先輩達が支配していて、やる気のある後輩がひどい扱いを受けていた。庇えば倍返しされるが、かまわず庇った。俺はテニスが好きだからだ。あまりの横暴ぶりに耐え兼ねた俺は結局彼らを殴り傷害事件を起こし、テニス部は廃部となった。そこから俺は後輩とテニス部を新設し、今に至る――のだが、傷害事件が起きたあたりから妙なことが起こるようになっていた。

ある日学校から帰ってくると、俺の部屋の椅子がもとの位置から大幅に動いていた。家族に聞いても「あなたの部屋には入ってないけど」という答えしか得られず、気のせいだと思うことにしたのだが、しかし翌日もその翌日も椅子はもとの位置から大幅に動く。さらに日を追うごとに怪奇現象はエスカレートしていった。帰ってくると、部屋が知らないうちに片付いていたり、消したはずのテレビが点いていたり、窓が開け放たれていたり。また別の日には、俺の部屋の机に俺は普段食べないはずの菓子の袋が散乱していた。それらの現象は全て俺の見ていないところで起こっていた。登校して帰ってくるまでの間から、目を離した一瞬のすきまで様々な「俺の見ていないとき」をねらってそれは起こるのだ。この部屋には俺の知らない誰かがいる……そんな気配がする。幽霊か妖怪か、そういった非現実的なものを引き合いに出さずにこの現象を説明できる気がしなかった。

そんな怪奇現象が続いたある日のことである。俺が学校から帰ってくる途中、俺の家の前の道に差し掛かったとき、道の端に立つ電信柱の一本に花束を手向ける初老の男性を見つけた。不審に思って母親に聞いてみると、半年ほど前にここで交通事故が起こり俺と同い年の女の子が犠牲になったのだという。それで一ヶ月に一度、彼女の父親が花束を手向けに来るそうだ。かわいそうな話よね、まだ20年も生きていないのに。母親は取って付けた様に嘆いたが、俺にはとても他人事には思えなかった。死んだ少女に心当たりがあるのだ。

その日もまた俺の机に俺の食べないはずの食べかけのプリンが置いてあった。ご丁寧にスプーンまでくすねたらしい。そこに何かいるような気がして、いやそれを確信して、俺は言った。

「お前は、何歳なんだ」

我ながらしょうもない質問だと思って訂正しようとふとちらりと上を見上げ、それから机のほうを見る。すると机の上のメモ用紙に女子らしい丸まった字で、

『14さい さいの字わからん……』

と書かれていたのが見えた。車に撥ねられ死んだ『彼女』は今ここにいるのだ。もはやそれは信じられないことに事実になってしまった。メモ用紙を取ろうと机に近づくと椅子から何かが立ち上がったような気配がした。プリンの容器はいつのまにか空になっていた。

都大会が行われるころには、彼女からの書き置きが一時間おきに机の上のメモ用紙に記されるようになった。俺も彼女が書くだろうとメモ用紙とペンを切らさないよう心掛けておいた。たわいない話ばかりだが、丸まった字を眺めるのは楽しかったしほっとした気分になった。例えば青学に負けた日の書き置きはこうだ。

『都大会おつかれさま。あつくなってきたね、がんばろうね。応援してるぞー』

がんばろう、とは書かれているが死んでやるべきこともなく俺の家からも出られない彼女が何を頑張るというのだろうか。ともあれ姿は見えないけれど、彼女の存在は俺を癒してくれるようだった。

とは言え彼女のことは年齢と好きな食べ物と趣味くらいしか知らない(甘党でプリン好き、趣味はやることもなくなった今はテレビを見るのと読書くらいなのだそうだ)。何度名前を聞いてみても『君には内緒ね』の一点張りで教えてくれない。そのかわり彼女も俺の名前を聞かなかった。彼女は俺の名前なんて俺と家族との会話を聞く中できっと知っているのだろう、そう思えば本当に俺は彼女のことを知らないのだと改めて実感する。

にもかかわらず、彼女の存在をありがたく思うようになっていたのもまた事実だった。彼女は少しずつだが着実に俺の心の支えになっていったのだ。それだから彼女がいつか消えてしまう(死んでいるので消えるも何もないが)のを常日頃から恐れていた。姿かたちも知らないのに偉そうなことだと自分を嘲笑いたい気持ちになるが、しかしもう彼女のいない生活が想像できないほどに友人としての、さらに奇妙な同居人としての彼女の存在位置が俺の中で確立されていた。彼女も彼女で日を追うごとに厚かましくなってゆき、『今日桔平プリン買い忘れたでしょう』と偉そうにメモで説教を垂れるようにまでなった。互いに遠慮がなくなったというか、一緒に過ごしていると居心地がいいので言いたいことを臆することなくズバズバと言う。そういった関係にある異性は今のところ杏と彼女のみである。

それから一週間ほど経ったころ、夢を見た。もともとはひとたび眠るとすぐに熟睡してしまうたちだったから夢を見ることもなかったのだが、彼女と出会ってから…いや、彼女の存在を認識してからはよく見る。その日の夢の中では彼女の姿は見えていて、生前彼女が通っていたであろう不動峰中の制服を着て、さも普通のことかのように俺と学校に通っている。遺影を見せてもらったこともないので彼女の顔など知らないのだが、初めて見たときこれは彼女だと確信した。向日葵のように明るく笑う、夏の似合う女だった。やさしい声で笑い声をあげていた。夢の中では楽しくて幸せで、いつまでも彼女といたいとさえ思った。目が覚めてから途方もない絶望感と虚無感におそわれた。俺はなんて虚しい夢を見ているんだ、彼女に失礼ではないか、彼女は死んでいるんだ、こんな叶わないことは願ってはいけない、そう自分を叱責した。そうやってうなだれていると、彼女が困惑した顔をしているのがなんとなく感じられた。本当にそうかは確かめようがないが、そのとき初めてはっきりと彼女が人間であり生きていたと感じたのだった。


***


つかの間の夏は過ぎ去った。不動峰は全国大会準々決勝で敗れたが、無名の学校にしてはよくやったと我ながら思う。彼女にその旨を報告すると、『感動した、ありがとう』と短いメッセージを返してくれた。読んだとたんじわりと温かいものが心臓のあたりに広がりなんともいえず黙ると、彼女が俺のそばに腰かけたのを感じた。 ベッドのスプリングが心なしか彼女の重みで軋んでいるようにも錯覚するほど、そのころには彼女は明確に人間として俺の部屋に居座っていた。

『最近思うの、わたしもっと幽霊らしくした方がいいかなって』
「まあそういわれてみれば確かにな」
『あと桔平、金髪似合ってるよ』
「それはどうも」

俺が自分の時間が取れるようになったこともあってたわいない会話の数も増えた。しかしお互いの基本的なことはやはりほとんど知らず聞こうともしないままただ時間だけが流れていった。そのころには彼女の夢ばかり見ていた。俺の思考の半分は彼女で埋め尽くされていた。恋というものを経験したことのない俺でもさすがに感づいた。ああ俺は気付かないうちに恋をしていたと。それを常に部屋にいる彼女に悟られることがないようにするのに躍起になるようになった。俺の気持ちを知らない彼女は今まで同様、いやそれ以上にフリーダムに行動し、暇で暇で仕方がない文字通り第二の人生を謳歌しているように感じられた。


***


幸せの終わりは唐突に訪れた。その日見た夢は悲しく薄暗く湿っぽかった。灰色をしていた。内容はあまり覚えていないが、彼女の顔がひどく寂しそうだったのは覚えている。朝いつものように彼女に声をかけると、彼女の様子がいつもと違っていた。

『わたしだけだよね、こんなに幸せな死人なんて』
「そうかもな」
『桔平』
「なんだ?」
『やっぱり、なんでもないや』

彼女がどこか焦っているように見えた(もちろん実際には見えていない)が、情緒不安定にでもなったのか、など適当なことを考えて、俺は家を出た。それが彼女と交わした最後の会話だった。

帰ってくると彼女の気配はなかった。机の上にはどこから持ってきたのかわからない封筒がひとつ置いてあるだけだった。急に焦りと恐怖が心臓からせりあがってきた。椅子は朝と同じ定位置に置いてあった。あわてて冷蔵庫を確認する。彼女のために買うようになったプリンは昨日と同じだけしか残っていなかった。知らず知らずのうちに手が震えていた。飾り気のないシンプルな白い封筒には、〈橘桔平様へ 〉と例の丸まった字で書かれていた。震えて感覚が麻痺した指先で恐る恐る封筒を開き、中に納められた便箋を取り出す。幾度もためらったような消しゴムのあとと鉛筆の筆跡の上からボールペンでぎこちなく文字が書かれていた。

『桔平へ。
もしかしたら君にわたしが頼みごと以外で自分から何か伝えようとするのは初めてかもしれないね。わたしは頭がよくないから文章を書くのもにがてだから読みにくいと思うけど、それでも読んでほしい。だから書きます。
わたしが君と出会ったとき、わたしは自分が死んでるのに気がつかなかった。それくらい普通に生活してたんだ。死んだことに気づいたのは、桔平がわたしの年齢を聞いてきたとき。口で喋っても伝わらないことにそのときはじめて気づいたの。それで、もしかしたら自分は幽霊なんじゃないかってね。死んだことは悲しいし、すぐそこの道にお父さんがお花をお供えに来てくれてるのも知って、申し訳なく思う。だけど桔平はやさしいからなんだか居心地がよくなっちゃって結局長い間居座っちゃったね。いっぱいわがままも言ったよね。ごめんね。
わたしは今まで人を好きになったことがなかったけど、最後にこれだけは言わせてください。あなたのことが大好きです。しぬほどすきです。一緒にいてくれてありがとう。幸せになってね。


思わず涙があふれた。自分らしくないとは思うが止めようがなかった。こんなかたちで彼女の名前を知ることになるとは夢にも思わなかった。という名前を口の中で転がしてみた。結局一度も彼女の名前を呼ぶことはなかった。ふと彼女の大好きだったプリンと手の体温ですっかりぬるくなったスプーンを持ってきていたのを思い出して、ふたをめくって口に入れてみる。べたべたに甘くて、それでいて少し塩辛かった。お兄ちゃんご飯だよと杏の呼ぶ声はいつもより遠く聞こえた。



不感体温



ときどき思う。もし彼女が俺の部屋にいたあいだに、俺が彼女に好きだと言っていたら、彼女の体温のない身体を抱きしめることができたのではないかと。
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