先輩が弓を引く瞬間の、的よりもずっとずっと先のどこかを見ているような横顔を好きになった。


誰の頼みごとも聞く、どんな無茶振りでもその特徴的な眉尻を下げて困ったように応じる、皆が嫌がるようなことでも必要とあらば率先して引き受ける。衛宮士郎という人は、言うなれば筋金入りを通り越したお人好しだ。どんな気難しそうな人ともなんとなく打ち解けているし、あの遠坂凛や間桐慎二なんかともそれなり、いやむしろかなりいい関係を築いているように見える。ああいった人たちと仲良くなるのは難しそうに思えるのに、彼はそういうことをわりとなんでもないことのようにやってのける。わたしのような凡庸な人間から見れば、それはものすごいことなのだけれど、衛宮先輩に言わせれば「オレなんて大したことない」のだそうだ。衛宮先輩は優しすぎて、しかし厳しすぎる。前者は他人に、後者は自分に。


ただの弓道部員A、ただの女子生徒A、ただの市民A。わたしは今のところ誰の人生のメインキャラクターでもない、普通も普通のモブキャラもいいところな人間だ。得意なことをたずねられると困るけれど、苦手なことならたくさん挙げられる。たとえば弓を的に命中させること。たとえば当たり前に人を助けること。たとえば気軽に人に話しかけること。あの人が息を吸うようにできることが、わたしには逆立ちして地球を一周するのと同じくらい難しく思える。ああなれたらなあとは考えるものの、魚が陸ではどう頑張っても生きられないのと同じで、人間にもどう頑張ってもできないことがあるのだ。きっと10年前、あの地獄のようだったという炎の中に居たらまず真っ先に死んでいただろう。草食動物というよりもはや植物の域にある程度の弱者である。悲しいことに、わたしはこんな人生をこんなもんかと受け入れてしまっているのだった。


衛宮先輩はそんな弱者にも優しい。いわく、「女の子には優しくしなきゃいけない」らしい。わたしがつまらないことで立ち止まっておろおろしているのを見かけると、何の見返りも期待せずに助けてくれる。
確か最初に助けてもらったのはわたしの入学式の日、校舎内で早くも迷子になったときだったような気がする。「外部生か? なら、中等部からいるヤツらが固まってたりするとちょっと輪の中に入りにくかったりするかもしれないけど……」とか、さらさらと話題を振ってくれる先輩に、やっぱりおろおろと受け答えしながら、一年年が違うだけでこんなにも人は大人びて見えるのだろうかと頭の片隅で思ったのをおぼえている。
別れ際に絞り出すように、先輩何部なんですか、よかったら見学しに行きたいです、と言った……と思う。噛み噛みで何を言っていたかわからないくらいだったかもしれない。そんなわたしに先輩が「弓道部だ」と告げた、あの瞬間にわたしは弓道部への入部を決めた。


はじめは単なるあこがれだった。ああいう人になれたらと思った。だから近くで、その姿を見ていたかった。
けれど、ある日先輩が美綴先輩に頼まれて、皆の前で弓を引く姿を見た。おそるべき流麗さをもって矢をつがえて弓を構え、すっと的を見据えた衛宮先輩は、ほかの部員とは一線を画した目をしていた。わたしだけでなく、その場に居合わせてその姿を見ていた人は皆、ごく自然に「ああ、彼は当てるな」と感じただろう。実際に先輩の放った矢は寸分の狂いもなく的の中心を穿った。誰もが黙りこむ中でひゅっと矢だけが空を切る音が、そのあとずっと妙に耳に残っている。
その横顔があまりにも格好良かった。ただそれだけの理由で、わたしは衛宮士郎への恋心を自覚した。


***


今日も学校は休みだ。偶然わたしが休んでいた日に学校で生徒が集団で意識を失うという異常事態が起こったらしく、ガス漏れだっただの危ないだの点検が必要だのと書かれた書類一枚だけが届けられて、それからぱったりあっさり休校になってしまった。
とはいえ衛宮先輩が来ない弓道部に顔を出すのも億劫だったし、これでよかったのかも。本日何度目かわからないため息をつきながら考える。好きだと自覚したはいいものの、だからといってわたしにできることなどなかった。朝先輩を見かけたときに挨拶してみる? ……無理だ。軽く会釈するだけならまだしも、前から間桐さんと一緒に登校してくることが多い先輩に声なんてかけられない。間桐さんはまさしく男の子の理想のような女の子だから、きっとわたしなんかが話しかけたらいっそう見劣りして、みっともない姿を晒すだけになるのだから。最近は遠坂先輩と、それから息を飲むほど美しい金髪の女の子と一緒に歩いているところも見かけて、もっと近づきにくくなった。あの光景を毎朝見なくて済むようになったのは、むしろ僥倖かもしれない。誰だって、好きな男の人が自分よりすてきな女を連れて歩く姿なんて見たくない。
会わなくてよかった。見なくてよかった。へんに期待も絶望もしなくてよかった。それなのに、一人で自分の部屋にいるのがどうしてこんなに苦しいんだろう。あの顔を見ないでいるだけでどうしてこんなにさびしいんだろう。どうせ見かけたところで、また一人置いていかれたような気がするはずなのに。まるでおかしくなってしまった自分が嫌だった。早く学校が始まればいいのに/登校日なんて来なければいいのに。


***


数日後、何事もなかったかのように登校日は来た。
今朝の衛宮先輩の隣には遠坂先輩もいた。あの金髪美少女はいなかった。間桐さんは当然のように先輩に寄り添っている。その三人の姿は文句のつけようもないほど完成されていた。三人だけでひとつの完全な世界を形成していて、誰も立ち入るすきがないように見えた。あの場に入っていけるのは例の金髪美少女だけなんじゃないかな。そんなふうにぼんやり思う自分の傍らで、心は悲鳴を上げていた。今日は衛宮先輩に会釈ひとつできなかった。あれに声なんてかけられるはずもなかった。だってそんなことをしたらきっと泣いてしまうから。


衛宮先輩は、学校が始まる前と比べて格段に大人びたように見えた。ときおり弓道場で的を見据えたときのような、遠く鋭いまなざしをするようになった。たいていそれはほとんど一瞬の間だけのことで、それはほかの誰からも指摘されている様子はなかった。きっと普通の生徒は気づかないのだろう。きっと間桐さんや遠坂先輩はお見通しだけれど黙っているだけなのだろう。わたしができることといったらやっぱり遠くからこっそり見ていることだけ。そう思えば、またあこがれの人がひとつ遠のいたように思えて、心臓がよじれるように痛んだ。


だというのに、帰り際、遠坂先輩と並んで帰ろうとする衛宮先輩にばったり遭遇してしまった。その顔と正面から向き合って、自然と自分の頬に熱が集中していくのを感じる。衛宮先輩の横の遠坂先輩が何やらおもしろいものを見るような目で衛宮先輩を見た。その視線ひとつでさえ、わたしが彼の為には持ちえないものだった。

「久しぶりだな。お前はこないだの騒ぎのとき、大丈夫だったか?」
「は、はい、あの日は偶然休んでたので。ガス漏れだったんだそうですね、先輩方は大丈夫でしたか?」

なんとか会話をつなごうとして、苦し紛れに言葉を紡ぐと、衛宮先輩はちょっと困ったような顔をした。あ、あれ、人に言えないことを突かれた時の気まずそうな顔だ。すると横の美少女がふいに、「実はわたしたち、偶然揃って授業サボって屋上にいて。だから平気だったの」軽やかな口調で言った。


そのあと二言三言会話をつづけたような気がする。衛宮先輩から久しぶりに「気を付けて帰れよ」と言ってもらえた気がする。でもすべてが遠かった。遠坂凛という人は当然衛宮先輩と並んで歩き去った。わたしは薄暗い廊下にひとり残された。わたしと彼女が違うがために、わたしはあの人の隣には絶対に立てない。さも当たり前のことのように仲良く並ぶ二人は、わたしが恋焦がれて望み苦しんで、それでも決して手に入らないまぼろしにすぎないのだと言われたような思いで、自分がひどく惨めだった。


思えば恋すること自体が傲慢だった。恋とは、自分に振り向いてほしいと思うことだから。先輩とわたしの間に横たわった何万光年の距離を見誤って、出過ぎた夢を抱いてしまった。先輩の眩しさに目がくらんで、自分ののばせる腕の長さも見失っていた。ああそうか、太陽は直接見ちゃいけないんだったなあ。思いながら、誰も見てくれない涙を流した。


きみだけ幸せな物語


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