もともと薄暗めのギアステーションの中でもとりわけ目立たないところにある「STAFF ONLY」と書かれた扉を開けると、そこには鉄道員の事務室がある。事務室とはいえ皆基本的にバトルするのが仕事なのでここに職場の皆が集うことはそうそうない。シフトが重なっていない限りは、あまりほかのメンバーと顔を合わせることもできない。それにもしも顔を合わせたとして、超の付くほど過密なスケジュールのなかグロッキーになりながら働いているため話す気力などほとんど残されていない。唯一仕事仲間と談笑できるのは、電車を運転しているときか駅構内でばったり会ったときか一緒に見回りするときか。それなら休日にでも会えばいいじゃないかと言われても、プライベートも何も仕事から解放される時間があまりにも少なすぎるので、わたしは彼ら鉄道員の私服姿など見たこともない。そしてわたしもまた、仕事に生き仕事に忙殺されているバトルサブウェイの歯車の一人なのだ。

女らしからぬ大あくびを一つして、事務室のすみに備え付けられたベッドにごろりと寝転ぶ。わたしは先ほどまでスーパーダブルトレインに乗って挑戦者たちの相手をしていた。スーパーのつく車両ともなると出てくるトレーナーは実力者ぞろいで軽くいなすこともままならない。一戦一戦がやたらと長いしそれが何度となく積み重なったために神経をすり減らされて体中が悲鳴をあげている。いったい何時間バトルし続けたのだろうか、それすらよくわからない。次々に挑戦者が現れる列車の中ほどにいたのが悪かったのだろうか。そう思うと存分にふるいにかけられたごく一握りのトレーナーしか相手にしないサブウェイマスターが羨ましいものだ。
はっきり言ってわたしたちのようなただの鉄道員のほうが上司であるサブウェイマスターよりずっとバトル回数が多いと思う。それで彼らがわたしたちより楽をしているかといえば、レポートやら重要書類やらをよく事務室でノボリさんが血相を変えながらさばいているのも見たことがあるから決してそんなことはないのだろうけれど(ここでクダリさんが仕事をしないのはバトルサブウェイの常識だからもはや誰も気にしない。わたしだって初めのうちこそいちいち注意していたけれど、忙しくなってくるともうそんなことに気を配る気力すらおきなくなってしまったのだ)。

しかし今日はいつにもまして体が重い。薄暗い列車の中にいたからか事務室の光をやけに眩しく感じる。頭がぐらぐらしてきた。そういえばこの間駅構内で発見されたクマシュンを保護してからトレーナーに返したときの報告書をまだ書き終えていない。すっかり時間間隔の麻痺した頭で時計とカレンダーを交互に見ると、締め切りまであと丸二日しかないらしい。明日も明後日もバトルのシフトが入っていて書く時間はなさそうだ。がんがんと痛む頭を押さえながらいやいや立ち上がって、そこで急に世界がぐにゃりと歪んで、

「あ、気が付いた?」

気が付くと至近距離にクダリさんの顔があった。よかった知らない人じゃなくてクダリさんで…と寝ぼけた頭でそこまでぼうっと考えてから、事態の異常さに気が付いた。おいわたし、報告書はどうした。まさかこの締め切りまで時間がないギリギリの状況で寝落ちしたのかわたしは。さあっと顔が青ざめていくのがわかった。どうしよう。
心配のあまり青い顔のわたしを見て、「うん、ちゃんと意識はあるね」とクダリさんはにっこり笑った。真に気にすべきところはそこではないと思いはするも突っ込めない。バトルサブウェイに就職してから時間がたてばたつほどクダリさんに甘くなっているように思う。

そんなことより報告書を書かなければ。がばっと身を起こすとクダリさんはぎょっとして、「ちょっとちゃん何してるのまだ寝てなくちゃ!」珍しく早口でまくしたてた。しかし締め切り寸前の報告書を前にしてまだ寝ていろと言われても従おうとは思えない。それがいくら信頼する上司の一言であっても。何を言っても聞かないわたしが手におえないと判断したのか、クダリさんは急に立ち上がってベッドから離れていった。
そこでようやく気付いた。ここは事務室でもなければ自分の部屋でもない。綺麗に整頓された部屋。大人一人で寝るには少し大きくて、二人で寝るにはもしかすると狭いかもしれない微妙なサイズの黒いベッド。枕元にはわたしの愛するパートナーたちのモンスターボール。そして鉄道員専用の緑がかった制服の上着は脱がされ、壁にハンガーでかけられていた。完全にわたしの知らない部屋だった。そういえばさっきのクダリさんは私服姿だったことを思い出す。嫌な予感がした。

どうやら人間の勘というものは当たりやすいらしく、どうみても寝室のこの部屋に入ってきたのはやはり私服姿のノボリさんだった。開けられたドアの向こうでデンチュラと戯れるクダリさんがちらりと見えた。これはもしかしなくてもそういうことなのか。

「あの、わたしはいったい」
「いいですから、黙って寝ていてくださいまし」

聞こうとするとぴしゃりと言われ、その有無を言わさぬ迫力に負けてしぶしぶ再び体を横たえる。彼はためらうことなくわたしの寝ているベッドに腰を下ろして、持っていた体温計らしきものをわたしに差し出した。くわえろということなのだろうか。おとなしくぱくんと口にくわえると、わたしのより大きな手が額に置かれた。冷たくて気持ちがいい。しかしながらこの間、ノボリさんもわたしも終始無言である。気まずい。
それになんとなくノボリさんは怒っているようにも見えた。表情自体はいつもとたいして変わらないのに言動が素っ気ない。

「あのう、わたしどうしたんですか」

一分ほど経っただろうか、体温計を口から離したあとわたしは尋ねた。ノボリさんは体温計を見てそれをケースにしまってから、大げさにため息をついた。いったいなんだというのだ。今日のノボリさんはやはりどう考えてもおかしい。
あの図太い(失礼)神経を持ちいつでも飄々としているはずのキャメロンさんでさえ震えあがってしまいそうなほど冷たい目。あれはきっとクダリさんに報告書を任せたらとんでもないものが出来上がって仕事を増やされてしまったときと同じ、いやそれ以上の気迫を放っている。要するに、普段温和でめったなことでは機嫌を損ねたりこんなふうに露骨にイライラしたりすることのないノボリさんははっきり言ってめちゃくちゃ怖い。

「…少々、お説教させていただくことになりますがよろしいですね?」
「は、はい」

またも迫力に負けてついそう言ってしまった。よろしいですね?という問いには「断る」という選択肢がどう楽観的に見積もっても存在していなかったような気がする。それならば、とノボリさんはわたしに向き直った。ベッドのスプリングが二人分の重みできしむ。

「なぜ風邪をひくまで無茶したんですか? いくらギアステーション職員のシフトが限界ギリギリだとはいえ過労でぶっ倒れるほどではありませんよ? もういい大人なんですから体調管理くらいしっかりしてくださいまし。あなたはいつもいつも自分の休憩時間に他の職員やクダリを手伝いに行っていますが、わたくしがどれだけ心配しながら見ていたかわかっているのですか? いつか倒れるのではないかとずっと気が気でなかったのですよ? あまつさえ体調が見るからに悪くなったから休憩時間を差し上げたのにどうしてそこで報告書に取り組もうとするんです? あなたの勤務時間内にあれくらい書けるでしょう、休む時は休んでくださいまし」

おそろしいことに、ここまでノンブレスである。ところどころ気になるフレーズがはさまっていたけれど、要するにノボリさんは「体調管理くらいしっかりやってくれないと自分が困るのだ」ということが言いたかったらしい。一息ついてから、わかりましたか?と念を押すノボリさんの目は本気だった。こくこくと無言でうなずくと、彼はほっとため息をついて、

「あまりわたくしを心配させないでください」

わたしの頭を撫でてそう言い残して寝室から去っていった。怒涛のような説教にぽかんとしているわたしのもとに、忍び足でクダリさんがやってくる。それはそれは楽しそうないたずらっこのような笑顔で。

「ノボリ、ちゃんのこと大好きだからすっごく心配してたの。ボクや他のみんなよりずっとね」

これ、ノボリにはボクが言ってたってこと内緒ね。それを聞いたわたしはきっとどこまでも間抜けな顔をしていたと思う。わたしの反応に満足したのか、クダリさんはにんまり笑っていた。隣の部屋からクダリさんを呼びつける怒ったような声が聞こえるまで、あと数十秒。

青春はおくれてやってくる


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