これの続き

朝方突然降り出した雨は勢いこそ弱まったもののしつこく未だにじとじとと降り続いている。まとわりつく湿気のせいでわたしもお兄ちゃんも弟も髪がうねってしっちゃかめっちゃかになっている(むかつくことにお姉ちゃんは抜かりない毎日のケアのおかげかノーダメージである)。嫌だなあとごろりと四肢を放り出した。季節外れなのに出しっぱなしで相変わらずしまう気配もないこたつの布団の中にうずくまって、お兄ちゃんはあからさまに落ち込んだ顔をしている。「俺が悪いんはわかっとる」「けども許してくれたってええじゃろ」ぶつぶつと何やら言っている姿はさながら駄々っ子のようだ。独り言のようにも聞こえるし、わたしに向かって愚痴を言っているようにも思える。お兄ちゃんが本当に望んでいることがなんなのか最近わからなくなってきた。

お兄ちゃんは外、とりわけテニスコートではペテン師と呼ばれて様々な人から一目置かれているらしいのだけれど、どうも信じがたい。中学の友達にはわたしが仁王雅治の妹だと知られるやいなや寄ってたかって質問責めされた。「仁王先輩って家では何してるの?」「彼女とかいるの?」「あー、なんかめっちゃ遊んでそうだよね」思い思いにてんで的外れなことばかり聞いてくるあたり、わたしのお兄ちゃんに対する認識と世間のお兄ちゃんに対する認識はどうもズレているらしい。わたしのお兄ちゃんはただの人見知りでよく自己嫌悪に陥っているだけの臆病者だと思っていたのだけれど。

先生から押し付けられた山のようなプリントをどうにか抱え上げておぼつかない足取りでふらふらと運んでいたところ、ふとお兄ちゃんに出くわした。隣には柳生先輩と、それからお兄ちゃんとわたしの幼なじみのさんが立っていた。お兄ちゃんはわたしの知らない笑みを浮かべていた。家での頼りなさげなものとは違う、不敵な。
そんなお兄ちゃんにみっともない姿を見せたくないと突然思った。行き先である職員室へは最短ルートだったはずのお兄ちゃん達の立つ廊下を通るのをやめて、きびすを返して立ち去った。これだから、学校ではまるきり別人になってしまうお兄ちゃんとは会いたくないんだ。何を考えているんだわたし。子供みたい、かっこわる。

さんはそんなわたしのかっこわるいところも、お兄ちゃんのかっこわるいところもみんな知っている。付き合いが長いからとかそういう理由だけではなくて、何かもう運命的なもので繋がっているんじゃないのかとわたしは真顔で考える。わたしたち兄妹を立海に通わせる気にさせる元凶はさんだし、何よりわたしもお兄ちゃんもさんが大好きだ。お兄ちゃんの好きはわたしの好きとノットイコールであることも重々承知、むしろ素敵なお義姉さんを早く捕まえてくれないかと心待ちにしているくらいだ。もうずいぶんと前からそう思い続けているはずなのに、最近はどうにも心が落ち着かない。

「お兄ちゃん、最近さんのことばっかり」
「当たり前じゃろ…姉さんには黙っとってな」

こたつに埋まるお兄ちゃんの背中はひどく小さくて頼りなかった。いたずらっぽく人差し指を口元にそえてみても、わたしにはそれが単なる強がりであることがひしひしと伝わってきた。どうせ本音なんて家族のわたしでさえも聞かせてもらえないのだから、ふとしぐさの隅っこに表れる心の揺れを読み取るのが癖になっている。もしかしたらこういうところがみんなの言う「ペテン師」たる由縁なのかもしれない。

じめじめとうだるような暑さの中、お兄ちゃんはこたつに潜り込んでいる。いくら体温が低めだからといって、そんな暴挙に体が耐えられるはずもなく、お兄ちゃんは額にじわりと嫌な汗を浮かべていた。ぎゅっと目をつぶり、何かに耐えているよう。それはなんなのだろう。絶え間なく浮かぶ言い訳か、せりあがる涙か、それとも。
さんに何かしたの、問えばお兄ちゃんは悪寒が走ったようにぶるっと体を震わせた。目を閉じたままのお兄ちゃんは口も固く引き結んだまま答えない。

おもむろに台所から持ってきた氷水をお兄ちゃんの前に置くと、彼は目を見開いてわたしを見て、それから目をぱちぱちと瞬かせた。「だってお兄ちゃん、あんまりにも暑そうだったんだもん」言い訳がましく何も知らないような顔で笑う。何もやましいことはないのに声が上ずった。そんなわたしを驚いたようにぼんやり見ていたお兄ちゃんは、ふと小さく笑って、お前さんはほんと気が利くのう、また弱々しい声を出した。結露の滲むコップを手に取って冷え切った水を飲み干す。あっという間にコップの中身は空っぽになった。空っぽのそれをしばらく眺めていたお兄ちゃんがふと震える声で呟く。

「なんで足りないんじゃ」

独り言のくせに、妙に耳に引っかかったまま剥がれそうにない一言だった。そんなの、わたしが聞きたい。彼が綺麗な顔を歪ませる原因を作った、そしてわたしが大好きだったはずのあのお姉さんが今はひどく恨めしい。目の前の詐欺師はえもいわれぬ枯渇に嵌まって弱々しくあえいでいた。どうかこの弱虫をこれ以上、わたしから奪わないで。


さまよえる事後




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