先輩たちはいなくなってしまった。

先輩たちが引退して初めての部活が始まったとき、日吉はそう言った。悲しんでいるようにも悔しがっているようにも見えた。淡々と喋るさまは跡部さんと明らかに異なっていて、謎の喪失感が部員たちの間に漂っていた。かくいうわたしも新しいマネージャーの要として日吉の隣に立ちながら、今まで頼り切っていた先輩たちの大きさを今更ながら痛感している。ぎゅっと人知れずバインダーを握りしめると、日吉の淡々とした声が止まった。「はい」と声をそろえて部員たちが返事をする。日吉には跡部さんとはまた違ったカリスマ性があるのはなんとなくわかってはいても、どうにも隣に立つ彼を部長としてすんなり受け入れるのは不可能そうだった。






先輩たちはいなくなってしまった。

俺は「部長として」そう言った。自分で言っておいて違和感しか感じなかった。俺は跡部さんのように派手なことはできないし、やるつもりもない。俺なりの方法であの人を負かせてみせる…下剋上、下剋上の一心でレギュラーまで上り詰め部長にまでなった。そうして氷帝テニス部の頂点に立って部員たちを見下ろしても、何の達成感もない。やっと跡部さんと同じ土俵に上がれたというのに、ちっとも彼に近付けた気がしないのだ。あの人がどんな思いで氷帝テニス部をひとつにまとめてきたのか、俺がいかに甘い覚悟で下剋上だ何だと言っていたのか、と毎日のように自己嫌悪の念がささくれ立ちざわざわと揺れる。恐ろしいと思った。こんなとき跡部さんならどうするのだろうかと考えてしまう自分が嫌だ。





正直なところ、わたしは日吉若が苦手だ。ストイックでとっつきにくいし話してみれば口は悪い。彼が氷帝中の女子から人気を集めているのが信じられない。氷帝男子テニス部という名札をつけているというだけなのかもしれない。たしかに彼は綺麗な顔をしているけれど、性格に難がありすぎる。一見精神力は強そうに見えるけれども弱音を吐かないぶん溜め込んでしまうし、何より上を目指すあまり足元が見えていない、というのがこの二年間日吉とともにテニス部として活動してきた中での彼の印象である。

最近の日吉は様子がおかしい。三年生が引退したことは間違いなく関係があるだろう。わたしは極力選手たちとコミュニケーションをとるよう努めていて(そうしなさいとマネージャーだった一つ上の先輩にきつく言われたのだ)、ドリンクやタオルを渡す際にはたとえ相手が樺地であろうとも笑顔で声をかけることにしている。おかげで樺地の言いたいことがなんとなくつかめるようになったのは言うまでもない。跡部さんが引退してから樺地は心なしかさびしそうだった。何というか覇気がない。鳳も鳳で、一日の練習のうち一回は「宍戸さん…はあ」とため息をついている。彼の重度の宍戸さん依存症は別に今に始まったことではないのだけれど。一、二年生たちは樺地と同じように、なんとなく覇気がないのだ。前はもっと勝利への執着心をむきだしにして、それこそ日吉のように、レギュラーになれるチャンスを今か今かとぎらぎら狙っていたはずなのだ。
それは部長である日吉も例外ではなかった。プレーに迷いが見えるのだ。ドリンクを渡す際に目を合わせてくれなかったり一言もしゃべらなかったりするのは前からだから特に気にはしていなかったけれど、プレーにまで支障が出てしまってはマネージャーとして黙っているわけにはいかない。わたしともう一人の後輩とでぎりぎりなんとかやっていけているレベルのマネージャー業だからプロ意識だなんだというのはいささか馬鹿げているかもしれないが、引退した先輩に「頑張ってねちゃん、あとは任せたよ」なんて言われてしまっては気が引き締まってしまうというものだ。わたしがなんとかしなくちゃ、という妙な責任感は、迷ったままの日吉を見ているうちにどんどん膨らんでいった。






俺はマネージャーなんて不要だと思っている。この夏で引退した先輩マネージャーは厳しかったがくるくる働く人で選手のことを一番に考えてくれているのが一目でわかるような人だったが、俺と同い年のはどうもそうは思えない。たかがドリンクやタオルを渡すだけの作業に雑談を加えるな、と思う。何か言いたいなら一言でまとめろこっちは練習時間が限られているんだから。この間部員たちがって可愛いよなだとか何だとか話していたが、俺はがどうして男子の人気を集めているのかさっぱり理解できない。危なっかしくてうかつに放ってはおけないし愛想を振りまくのに必死で真にやるべきことが見えていないことがしばしばある、というかアドバイスを鵜呑みにして自分で考えるのを放棄している時点でなっていない、というのが俺のに対する認識である。

最近は輪をかけておかしい。何かに取りつかれたように働いているようにも見える。わたしがやらなくっちゃ、という文字が顔に書いてあるようだ。先輩がいた頃はもっとはのんびりしていて(見かねた跡部さんが一声怒鳴る程度には、だ)何を考えているのかわからないような奴だったはずなのだが。
部員たちの様子もどことなくおかしい。先輩たちが引退してしまったことは少なからず関係があるだろう。俺やが悩んでいることをそれとなく察知して気を使ったつもりが彼らまで神経質になってしまっている…まさかな。さすがに買いかぶりすぎたか、跡部さんじゃあるまいし、と思ったところで自分に嫌気がさした。ああまったく、いつまでたっても俺は跡部さんと自分を比較対象にしている。全く違う氷帝コールを見つけてみろと言われて自分なりに頑張っているつもりなのに、ついつい偉大だった前部長の影を重ねてしまう。ちっとも前進できていない。はあ、と一息ため息をつくと、ポニーテールを揺らしてが笑顔で走ってきた。…そんなへたくそな作り笑いなんてやめればいいのに。






「日吉、最近おかしいよ」

勇気を出してドリンクとタオルと一緒にその言葉を投げかけた。返ってきたのは冷たい眼差しだった。この程度の冷やかさは氷帝学園男子テニス部、とりわけ日吉においては日常茶飯事ともいえるので無視して笑顔で尋ねる。日吉の眉間には皺が刻み込まれていた。心なしかくまができているようにも見える。やはり何か悩むところがあったのだろう。

「日吉やっぱり何か悩んでる?わたしでよければ相談に乗るよ」

日吉はチッと一つ舌打ちをした。今までこんなに露骨に嫌悪感をあらわにされたことはなかった。わたしは一瞬竦んだ。竦んでしまったわたしに、追い打ちをかけるかのように日吉は口を開いた。

「何が相談に乗るよ、だ。お前は人のことを言える立場か」

え。平仮名一文字がわたしの脳内を一瞬にして占拠した。つまるところ日吉は悩みを相談するほどわたしのことを信用していないし、わたしなんて相談に乗って「もらう」ような敬うべき相手ではないということが言いたいのだ、彼はきっと。先輩たちが引退してから今まで必死にマネージャーの仕事を立派に務めようと頑張っていたのに、肝心の日吉の信頼は得られていなかった。
そっか、ごめんね、時間とらせて。声が震えないようにそう言い残して、半ば押し付けるようにドリンクとタオルを日吉に渡して、コートから逃げ出した。






「…日吉、今のは酷いと思うよ」

鳳が遠慮がちにが置きっぱなしにしていったドリンクを手に取る。少し声量が落ちているのはきっと練習で走り回って息が上がっているからだろう。先輩たち、とりわけ宍戸さんにとても懐いていた鳳は、あの人たちがごっそり部からいなくなってしまってから何かに取りつかれたように一心不乱に練習をするようになっていた。もしかすると俺の配慮不足も一因かもしれない。自信のない自分が途方もなく嫌だった。
鳳がドリンクを取っても突っ立ったまま動こうとしないので、俺は見かねてつい声をかけた。口うるさいくせに実力が伴っていないだなんて格好がつかないと鳳にはばれないように自嘲する。

「おい、鳳、練習」
「…日吉、俺の話聞いてた?」

それまで心ここにあらずの言葉が似合うほどぼんやりしていた鳳の目が急に何かを見透かしたようにすっと細められた。俺はこういう鳳の表情は嫌いだ。むかむかする。

「いくら自分がうまくいってないからって、さんに当たるのは筋違いじゃないの。さんだっていろいろプレッシャーとかあって大変なんだから、あんなこと言っちゃだめだよ」

長身の彼の口から降ってきた言葉が俺を容赦なく打ちのめした。痛いところを突かれて動揺しているのを悟られないように必死で無表情を取り繕う。鳳の顔をもう一度見てみたが、彼はもう腹立たしいあの顔はしていなかった。さあて練習行ってくるね、と手を二度三度振って鳳はコートへ飛び出していく。いつも通りの無邪気な顔でさえも苛立たしく見えた。
なぜ俺はこんなにもイラついているのだろう。先輩たちがいた頃は多少むかつきはしたけれどここまで気分が悪くなることはなかった。俺の視界に入るすべてが腹立たしい。どんな些細なことでも俺の機嫌を逆なでする。先ほどの鳳の言葉も悪気があったわけでもなんでもなく、ただ「さんが傷ついた顔して走って行ったから」俺に声をかけたにすぎないのだろう。アイツはそういう男だ。

つくづく、が関わるとろくなことがない。そもそも鳳にあんなことを言われなくても俺だって最初から気づいていたし、当たってしまったのは素直に良くなかったとは思う。だがそれをなぜわざわざ鳳なんかに言われなければいけないんだ、と意味の分からない駄々のような感情がふつふつと沸き上がってくる。何もかも気に入らない。

「くそっ、行けばいいんだろ行けば」

俺はおさまる気配も見せない怒りを胸に抱え込みながらテニスコートをあとにした。






馬鹿の一つ覚えのように今は泣くことしかできない。日吉から逃げ出して部室に駆け込んだはいいけれど、いつ誰が来るかもわからないこんな部屋でぼろぼろ泣いていては誰に見られてもおかしくない。こんなことならトイレにでも駆け込めばよかったかもしれないと思う半面で、いっそ誰か来て慰めてくれたらいいのに、と考えてしまう自分がひどく憎たらしかった。そんな同情を手に入れるためにテニス部に入ったわけではない。

もっと選手とコミュニケーションをとってあげてね。わたしにはそれが上手にできなかったっていうか、素直に「あなたたちのこと信頼してるからね」って態度にも口にも出せなくってさ。ちゃんならできると思うの。だから、頼んだよ、特に日吉のこと。
…先輩の言葉がフラッシュバックする。厳しかった先輩の声音がいつもよりずっと優しくて素直で、完璧だった先輩のもとでどうやって働いたらいいのか悩んでいたわたしの心にすっと入ってきた。わたしを救ってくれた一言だ。忘れたくないし忘れられない。先輩の願いでもあったその言葉をわたしは裏切ってなるものかと自分なりに頑張ってきた。そのはずなのに、情けない。無力な自分に嫌気がさして、涙はあとからあとから零れ落ちてきた。

「…やっぱりここか」

背後から突然聞こえた声にびくりと肩が跳ねた。おそるおそる振り向くとそこに立っていたのは日吉だった。少し息を切らしている。走ってきたのかもしれない。だとしたら余計に情けなくて申し訳なくて、視界はなおさらぐちゃりと歪んで頬を熱い雫が伝った。わたしが泣いているのに面食らったのか、日吉はきょろきょろと部室の周りを見回して誰もいないのを確認してから扉を閉めた。そのままずかずかとわたしの傍まで歩み寄ってきて、わたしの隣に腰を下ろす。

「あんた、なに、してんの」
「今回は俺が悪かった」

日吉はそう言ったきりふいとそっぽを向いた。それでも立とうとしていないところを見ると、どうやらわざわざ慰めに来てくれたらしい。珍しいことについ顔が綻ぶ。そんなわたしをみた日吉は、泣きながら笑うなんて忙しい奴だなと鼻で笑った。苦笑ですらないのが日吉らしいといえば日吉らしいけれど、なんだか今日はそれが強がりのように見えた。

無意識に日吉の頬に手をのばした。わたしはどうやらそこで驚きのあまり硬直する日吉に何か言ったようなのだけれど、はたして何を言ったのか全く覚えていない。気づいたら目のまわりを真っ赤にした日吉をわたしは抱きしめていて、そんなわたしたちを目の当たりにした跡部さんがニヤニヤと笑んでいた。






ああコイツは傑作だ――と跡部が高笑いする。珍しく屋上で昼飯食いたいなんて跡部が言い出すから何かと思えば、日吉とがいかに頑張っているか自慢するために集められただけだった。もう親バカもいいところだ。忍足なんて心を閉ざしちまったし、岳人はげんなりした顔で弁当を突っついて、ジローはいつものことながら熟睡、どうにも逃げ切れなかった俺は樺地と一緒に仕方なく生返事の相槌を打つほかない。

「あの日吉が泣いたんだぜ」
「まあアイツ根詰めてたっぽいしな」
「あの日吉がだ。……もよくやるぜ、本当にな」
が日吉泣かしたんだろ、それはもう聞いた」

うんざりした顔の岳人が耳を押さえた。
跡部の話によると、跡部が部活に顔を出そうと部室へ入ろうとするとがわんわん泣く声が聞こえてきたらしい。それでまわりを見てみると、何やらただならぬ形相の日吉が猛然と走ってきたのが目に入り、「ああを慰めに来たのか」と常人離れした思考回路で即判断しその場をいったん離れて遠くから見守っていたそうだ。しばらくはのしゃくり声が聞こえていたがそれが急に途絶え、何かと思ってそっと覗くとが日吉にとうとうと説教を始めていたらしい。ぽかんとした顔でそれを聞いていた日吉の目に涙が溜まっていき、いてもたってもいられなくなり部室に突入したそうだ。お前それただのお節介焼きじゃねえかと突っ込んでやりたくなったが相手はあの跡部なので仕方ない。

「ったく、いちいちそんなこと報告しなくていいだろ俺たちに」
「そーだよ、大体跡部お前過保護すぎんだよ」
「過保護?」

跡部の眉がぴくりと吊り上がる。やべえ怒らせたかも、と岳人がぼやく。いい迷惑だ激ダサだぜ岳人。だが俺たちの予想に反して跡部は怒らなかった。

「そうでもないぜ、俺はただ見守ってるだけだ手は出してねえ」
「とか言って、本当にお前アイツらで大丈夫だと思ってんの?」

岳人が心配そうに言う。岳人の言うとおり、長太郎は俺がいなくなった途端に不安定になったと噂になっているし、樺地についてはあまり心配することはないにしても、は人の言葉を鵜呑みにして自分で考えていないことがしばしばある。それに日吉は誰の助けも借りようとせずに自分だけで抱え込んでしまう傾向がある。なんというか、不安定なのだ、俺たちが抜けたあとの氷帝テニス部レギュラーは。
しかし跡部は不敵ににやりと笑って一言、

「馬鹿か、出来ないと思ってたら託さねえよ」




ギミックは決して



: MS P明朝; color:#000000; font-size: 65pt">ノーと言わない

title by helpless


「素直に謝ることも周りの意見を聞くことも覚えている。日吉だって成長してるんだぜ」
「それにあの日吉に『わたしを信じてよ!』なんて一言かませる女もそうそういないぜ」
「これだからアイツ等は面白え」
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