なんだか陰気臭い雨がざあざあ降っていた。肌を突き刺すような寒さはもうとっくに緩んで春の兆しを見せていたというのに、せっかくの陽気が台なしだ。縁側に座り込めば床の木材からは濡れた森のにおいがしたし、つま先はしっとり雨に濡れてしまった。こんなことなら手元にタオルでも持ってきた方がよかったかも、とぼんやりしていると、

「何してるの」
後ろから声がかかる。振り向けばそこにはヒロトが立っていた。

「うん、ちょっとね」
畳の床に上体を投げ出す。反動でまっすぐになった足から水滴が散らばった。ヒロトは床に腰を下ろしてわたしの顔を覗き込んだ。彼のつま先もまた少しずつ濡れ始める。風邪ひくよと言うときみがそれを言うのかいと笑われた。

「なにか悩み事でもあるの?」
「なんで」
「眉間に皺寄ってる」

玲名みたいだよ、とヒロトは穏やかに笑った。そんな穏やかな笑顔が妙になつかしくて、つい手を伸ばすと彼の深紅の髪に手が届いた。人間離れしたきれいな髪だなあとぼんやり思う。

「どうしたの」
「もう一年も前なんだねって考えてたの」

あの宇宙人騒動からは一年余り経っている。時の過ぎるのは早いものだ。わたしたちが潜っていた鋼鉄の施設の壁のにおいを、わたしはもう思い出すことができない。間取りだって忘れてしまったから、きっと今行っても知らない人の家みたいに感じるはずだ。そうだろうという予測が半分、そうであってほしいという希望が半分。ヒロトのくせのついたつややかな髪を触ると、その話をされるのをきらう彼は嫌そうにわたしの手をゆっくり払いのけた。

「思い出したくない」
「ヒロトは変わらないね」
「やめてくれよ」
「ヒロトだって眉間に皺寄ってるよ」

ヒロトは言われてからはっとしたように目をぱちくりさせた。それがなんだか普段の大人びていて冷静沈着な彼とはまったく違う子供のようなしぐさだったので小さく笑うと、ヒロトは不服そうな目をした。まだ両手の指の数ほどの歳を重ねてすらいないのに、普段の彼はこうして隙を見せてくれることはめったにない。いつも自分よりずっと大人に見えているからか、年相応の反応をするヒロトはへんに幼く見えた。

「ねえヒロト」
わたしはくるりと体勢を変えてヒロトと目線の高さを合わせる。孤児院の子どもがぐずった時にやることだ。そしてこの方法はほかでもなく基山ヒロトに教わったものである。思わずやってしまった子ども扱いを、大人な彼は見なかったことにしてくれた。

「まだ気にしてるかもしれないけど、わたしは基山ヒロトが好きだよ」

ふと思ったことをそのままぶつけるとヒロトは悲しそうに笑った。

「だけどその名前だって父さんに貰ったものなんだよ」
「わたしは前の名前を知らないから」
「そうなんだけどね」
ヒロトは深いため息をついてわたしの肩に手を置いた。子供らしくない諦めや絶望感が混じるため息だ。置かれた手は質量以上の重みを持っていた。

「結局俺はあの人から逃げられないんだ」
「そうかもしれないね」

自分でも驚くほど淡々とした口調でわたしは言った。ヒロトの眉間の皺がよりいっそう深くなる。

「でも、義理とはいえ父親だからいいんじゃないかな」
「父さんは俺を見てくれやしなかったけど」
「ううん、見てたよ」

朝早くわたしを毎日呼び出して「グラン」がいかに優れているか、彼がどんなに努力しているかをわたしに問いただして、望んだ答えを聞くなりうれしそうに微笑むくらいには。わたしがそう説明すると彼は翡翠色の目を見開きただ黙りこくった。絶句したようにも、なにを言えばよいのかわからなくて言葉を探しているようにも見えた。でもやっぱりそれって、とまた後ろを向き始めようとする口をそっと片手でふさいで、

「ねえ、もう一度言うよ」 今度こそ抵抗しないヒロトの手を掴んでわたしは訴えた。 「わたしは吉良ヒロトでもグランでもなく、あなたが好きなの」


悪夢まで飲み干して


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