「ほんとはね、高校卒業して大学へ入って大学も卒業したら、そしたら指輪を買おうと思ってたんだ」
「どんなの?」
「君に似合うやつ」

悪い虫がつかないように男避けの意味も込めてね。そう不二はふわりと笑うとわたしの髪をそっと梳いた。相変わらず突拍子もないこと飛ばすねえと照れ隠しに言うと、やっぱり笑いながら不二は、君の照れる顔を見るためならねと言った。綺麗な顔をして案外サディストの気があるから不二だけは敵に回したくない。

「わたし死ぬまで不二に勝てないかもしれない」
「ふふ、老い先短いしね。君に負けたくないから僕はそれでも構わないけど」
「老い先短いなんて嫌な言い方しないでよ、まだ高校も卒業してないのに」
「ごめんごめん、だけどあと一時間しかないんだよ、僕たちの余命」

不二が腕時計に目を落とす。二月下旬のまだ薄ら寒い風の吹く学校の屋上にはわたしたち以外誰もいない。洗濯ばさみでフェンスに申し訳程度に留められたメモが一つ二つ風にはためいるだけだ。もしかしたら飛び降りた子の遺書かもしれないなあと暢気に考える余裕が自分にあったことに驚いた。空は空気を読んでか読まずかからりと晴れ渡り、雲一つない青色をしていた。


***


三日前、冷や汗を浮かべた世界中の科学者たちが報道機関を通じて「三日後の正午に世界が終わるであろう」ことを発表した。全世界はそのニュースに震撼した。信じられないことに、何が起こるわけでもなくすべてが突然終わってしまうのだという。老若男女問わず動揺し、皆パニックに陥った。学校からはこれから自由登校になることのみが伝えられた。わたしも最初は戸惑ったけれどなんとか次の日には自分を落ち着かせ、やりたいことをやりきって人生を終わろう、そう決めた。そう決めたのは何もわたしだけではなかったらしく、発表されたその日に不二はわたしに告白してきたのだ。

「君のこと、ずっと前から好きだった。告白するのは卒業してからにしようと思ってたけど、それどころじゃなくなっちゃったから」

珍しく照れたような罰が悪そうな顔で言うから、なんだか可愛いなと思った。それから告白されたのに気付いてかあっと頬が熱くなったところで、不二はもう一度、今度はわたしの耳元で囁いた。

「ねえ、好きだよ」

もとより不二のことが好きで告白してやろうかと目論んでいた矢先にそんなことをあんなに甘い声で言われては堪らない。茹で上がった蛸さながらに真っ赤になって思考回路がショートしてしまってうわごとを言い出したわたしを、まったく可愛いなあと不二は笑った。若干馬鹿にしていたように聞こえたのは気のせいだと願いたい。


***


「向こうに着いたら、真っ先に君を探すよ。それで一緒に裕太を探そう」
「不二ってほんとブラコン」
「まあね、否定はしない」
「でもちょっとだけ嬉しい」
「どうして?」
「弟くんよりわたしを先に探してくれるんでしょ」
「…君って急に可愛いこと言うよね」

不二は少し驚いたように目を見開いてからまた柔和に笑んだ。作り笑いとは違う、それより綺麗な笑顔だった。不二はわたしに向き直り、ぎゅうっとわたしを抱きすくめる。力は強いのに壊れ物を扱っているようにも感じられた。自惚れかもしれないけれど、大事にされてるんだなあと思う。

「でもほんとは君を死なせたくないんだ、皆死んでも君だけには生きていてほしい」
「そんなの嫌だよ、わたしは不二がいないなら生き残りたくない」
「一昨日も昨日もぶっきらぼうだったわりに今日はやけに素直だね」
「最後だからね」
「じゃあ、最後だから素直になってる君にお願いがあるんだけど」

自分を包む腕に込められた力が強くなる。さっきまでは寒かったはずなのに、抱きしめられて恥ずかしいやら何やらで暖かいのか寒いのかすらわからなくなってしまった。

「僕の名前を呼んで」
「な、なんでよ」
「だってあと30分もないし」
「だけど」
「いいから、お願い」

有無を言わせぬ「お願い」には断るという選択肢が存在していないらしい。このお願いは聞くしかなさそうだ。

「……しゅう、すけ」
「よく出来ました。ご褒美は何がいい?」
「それも言わせるつもり?」
「君が何をしてほしいのか僕にはさっぱりわからないからね」
「不二ってほんと、」

言葉の続きは彼の唇に飲まれた。この行為にはいまだに慣れないし、きっと残り少ない時間の中で慣れてしまうことなど不可能だろう。じんわりと幸福感と羞恥がせり上がってきて、わたしの顔はまた真っ赤に染まる。嘘つき、と苦し紛れに言ってみるものの不二の余裕の微笑は崩れないままだった。

「慣れないことなんかするものじゃないわ」
「今のは僕がしたかっただけだから。で、君は何してほしいの」

不二が目を細めていたずらっぽい笑みを浮かべる。一つ一つの仕草がいちいち綺麗なのでつい見とれてしまう。麻痺した頭を精一杯回転させて、あと30分しかない余生の中で一度はこの男をぎゃふんと言わせたかったわたしは咄嗟に、

「ずっとこのままでいて」

と言った。頑張って考えたわりにずいぶんありきたりなことしか言えなかったことを悔やんでいると、一瞬だけ不二が呆けた顔をしたのに気付いた。ついつい頬が緩んでしまう。世界があと30分もしないうちに終わるというのに、このときにはもう何も怖くなかった。

「ときめいた?」
「ふふ、どうだろうね」
「嫌な奴!」

わたしがふて腐れて唇を尖らすと、君にはいつもときめかされてるからね、と不二が呟く。そこでわたしは突然、自分がいかに幸福な人間か悟り、死ぬことが心の底から怖いと感じた。

「怖いかい?」

見透かしたように不二がわたしと目を合わせた。わたしが小さく頷くと、僕も怖いんだと不二はまたわたしをぎゅうっと抱きしめた。永久に続いてほしい今の幸せが一瞬で壊れてしまうのが恐ろしいのだ。

「天国でも不二と一緒がいいな、会えるかしら」
「必ず見つけるからそのときは覚悟しなよ」
「…そしたら指輪、買ってね」
「うん」
「それで、ずっと一緒にいてね」
「もちろん」
「不二」
「なに?」
「あんたといると幸せ」
「僕もだよ」


***


しばらく抱き合っているうちに睡魔が急に襲ってきた。うとうとまどろむうちに意識がぼやけだして、それからのことはよく覚えていない。好きだよというあのときの不二の囁きだけが鼓膜の中でこだましていた。





まどろみに溶けゆく

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