「やっほー今日も君は可愛いねえ!」
「相変わらず飽きずによくやるよ、アンタ」

隣できらきらした笑顔を振りまいて道行く女の子に手を振る千石にあきれてそう言うと、「そりゃあ、世界中の女の子全員俺は可愛いと思ってるしね」と本日も絶好調の営業スマイル全開で答えられた。正直反応に困る。本当にコイツの思考回路は理解しがたい。というよりも、わたしは千石清純という男が苦手だ。そもそもこんな男に清純なんて漢字は似合わないし。たまたま小学校が一緒だったから彼も話しかけやすいというだけなのだろう。

それでも千石とわたしとで連れ立って放課後にもなって校舎内をうろうろしているのにはもちろん理由がある。マネージャーでもなんでもないというのに、たまたまテニスコートのそばを通りかかったわたしにあろうことか千石は「ちょうどいいから一緒に阿久津探しに行こうよ!」と強引に誘い、伴爺の許可もあっさり取ってきてしまったのだ。なんでも大会が近いとかで、どうしても彼に部活に出てもらう必要があるそうだ。
ここで付け加えておくと、わたしは亜久津仁という男子生徒とまったくかかわりがない。びっくりするぐらい面識がない。亜久津のことをわたしが知ったのは三年生になってからだし、亜久津だってわたしのことなんか知らないだろう。まわりの子たちの口ぶりからしてなんだか怖い人らしいしできれば行きたくなかったのだけれど、顧問の先生まで許可を出してしまってはもうどうしようもない。伴爺、あとで覚えてろよ完璧すぎるレポート提出して度肝抜かせてやるんだから。意味もない悪態をぐちぐち心の中で吐いていると、「やだなあもう顔色悪いよ?」と意地悪な顔の千石が声をかけてきた。とりあえず殴っておこう。

「だいたい、どこにその…亜久津?くんはいるの」
「さあ?」
「さあって何よさあって」

わざとらしく肩をすくめる千石に本日五度目のため息をつかざるを得ない。たぶんどっかで寝てるかタバコ吸ってるかどっちかだよと彼は言うけれど、どっかってどこだ。お気楽な口調からして大体の目星はついているのだろうからあまり心配はしていないけれど。

ぶらぶらとしばらく歩いていると、テニスコートとは校舎を挟んで反対側の校庭の隅に白い学ランを着た大きな影が見えてきた。途端に千石の顔が少しばかりがっかりしたような表情を浮かべる。なるほど、あの白い頭の男が亜久津仁らしい。たしかにガラは悪そうだ。怖いと思われて当然かもしれない。

逆立った白い髪を見ても動じることなくいつも通りの間延びした口調で千石がひらひらと手を振って「あーくつー!伴爺が呼んでたぞー!」と声をかけたものだから、亜久津はぎろりとこちらを睨んできた。普通に怖い。思わず竦んで硬直してしまったわたしをよそに、千石はいつもと変わらない飄々とした足取りで阿久津に歩み寄った。

「…何しに来た」
「何って、亜久津を呼びに来たんだよ。ほら、大会前だろ俺たち」
「あのジジイの命令か」
「うん、まあそんなとこ。ってなわけで、おいでよ亜久津」

女の子もつれてきたんだよ、と千石はやや自慢げに言った。亜久津の眼光がよりいっそう鋭くなる。お願いだからこれ以上彼の機嫌を損ねないでいただきたい。亜久津はわたしの姿を認めると、のっそりと重い腰を上げた。そこで千石が「お、亜久津が色仕掛けに落ちるなんて珍しい」なんてどうでもいいことを言うのでまた阿久津の視線がきつくなる。ああ、なんという悪循環。

「それよりてめえ、あの女はなんだ」
「なんだって…亜久津は知ってるでしょ」

にんまりと笑う千石がそうのたまう。亜久津はますますきびしい顔をした。やっぱり怖い。すくむわたしに彼はずんずんと歩み寄ってきた。近づくにつれ目力の強さに圧倒され動けない。わたしが思いっきり怯えた顔をしていたからだろうか、亜久津は急に振り返って千石をぎろりと睨みつけた(わたしの視点からでは見えなかったけれどたぶん睨んでいたのだろう)。
そこで亜久津が飛ばしたせりふは今でも一字一句間違うことなく記憶している。

「どうでもいい用事に女を巻き込んでやるな。コイツだって忙しいだろう」

吐き捨てて亜久津は去って行ってしまったのに、千石は「あーあ逃げられちゃった」と残念そうな微笑みを取り繕うのみでまったく困ったようなそぶりを見せない。案外テニス馬鹿だったりするからそんなことはないと思いたいが、サボれるなんて俺ラッキー!とか思ってないだろうな。
それにしても、と恐怖と呆然とで回らない頭で考える。女友達が話していたような恐ろしい男・亜久津仁が吐くにしてはいささか優しすぎる捨てぜりふだったように思うのだ。この一件で、それまでほとんどどうでもいい存在だった亜久津という男がわたしの中で「少し気になる存在」に昇格したのだ。



それから数か月間、わたしは一度たりとも亜久津と口をきいていない。そろそろテニスの都大会が始まるらしいと風のうわさで耳にした。亜久津も出るのだろうか。亜久津はどうも男子テニス部員らしいのだけれど、わたしがいくらちょくちょくテニスコートを覗きに行っても亜久津がラケットを振る姿は見たことがない。退部したんじゃないのー?なんてクラスの子が笑いながら話していた。だとしたら残念だ…わたしは彼のテニスを見てみたい。数か月亜久津と話してもいないくせに、その想いだけが独り歩きして勝手に膨らんでいってしまったのである。

そうは思っていてもやはり亜久津が怖いのにはかわりはなくて、どうにも声をかけづらい。ごくたまに廊下ですれ違うこともなくはない。それでも真正面から亜久津と対峙しろなんてわたしに死ねと言っているようなものなのだ。どうしたものか、と悩んだ挙句思いついたのはたったひとつ、もはや腐れ縁としかいいようのない男・千石に相談することのみだった。

そうして千石はにやにやといやらしい笑みを浮かべてわたしと向かい合っている。亜久津の顔は目を合わせたくないという意味では見たくないからつい背中を向けたくなってしまうけれど、千石の場合彼に背中を見せてしまったら何かものすごく危険な気がする。
「都大会、明日だよ」と千石は言った。たぶん俺たち決勝まで勝ち残るから、大丈夫、安心して亜久津の試合見に来なよ。こういうとき普段の彼ならば「俺の試合」と言うだろうに、どういう風の吹き回しか、「亜久津の試合」と千石は言った。阿久津のことについて相談しているのだから当然といえば当然かもしれないが、わたしにとってはそれはかなり意外なことだった。

「…亜久津って、強いの」
「見にくればわかるよ」

千石はそれでもいつも通りにへらりと笑った。彼自身はものすごく楽しそうなのだが、いかんせん信用の薄い男だ、裏で何を企んでいるのかわからない。今回くらいは話に乗ってやってもいいか、とちらりと思った。


それはそれは鮮やかに山吹中は関東大会へ駒を進めた。あれよあれよという間に勝ち進み、度重なる試合を応援団の影からこっそりと眺めていたわたしもつい引き込まれてしまった。普段クラスでは地味なはずの二人が、ラッキーと笑いながら日々の努力を時折垣間見せる男が、まだ少し生意気さとあどけなさが共存している後輩たちが、わたしの心をいつになく揺さぶった。見ているだけでもスポーツってやっぱり素敵だ。運動が苦手なわたしから見て、今日の彼らはヒーローも同然だった。
そうやって感嘆のため息をつきつつ試合を見ていたのだけれども、亜久津はまったく姿を現さない。途中から来たのがいけなかったのかもしれない、と千石に対しての妙な対抗心のために少し遅れて来たことを小さく悔やむ。けれども決勝戦の相手だという青春学園のマネージャーらしき長身のメガネ男が亜久津はいまだに一試合も出ていないと言っていたような気もする。決勝くらい出てくれるだろうと、さっきから握りしめていてぬるくなってしまったジュースを飲み干しながらオーダーの発表を待った。

――シングルス1、亜久津仁。名前を聞いた途端盛大にむせて、近くでカメラを構えるお姉さんにひどく怪訝な顔をされてしまった。それくらいわたしの心は彼の名前を聞いただけで踊ったのである。思えば一度会っただけ、おまけに会話もしたことがないような亜久津にここまで一喜一憂させられているなんてなんだか不思議なものだ。

相手は青学の一年生、どうもスーパールーキーとして名高いらしい。テニスには疎いのでそんなことは知らなかったし、亜久津は負けるはずがないと何も知らないくせに信じ込んでしまっていた。

結果は亜久津の負けだった。序盤優勢だった彼は後半になるにつれ追い詰められ、意地を見せて粘りに粘ったけれど彼は競り負けてしまった。お互いの放つボールが描く黄色い軌道に観客席の視線は釘付けで、意地と勇気とのぶつかり合いを見ていると心に何か熱いものを感じた。
表彰式が終わってもなお試合の余韻にぼんやりとしていたわたしを見つけるなり、千石は駆け寄ってきた。へらへらした笑顔は相変わらずだけれどどこか悔しそうに見えなくもなかった。こんな奴でも一応テニス馬鹿なんだなあという考えがちらりと脳裏をよぎって苦笑する。「準優勝おめでとう」と冗談っぽく言うと彼はわざとらしく顔をしかめて、それから腹に一物抱えていそうな顔でわたしに耳打ちした。

「亜久津、たぶん山吹中の近くの公園に行ったと思う。ほらあるでしょ、あのテニスコートのあるところ」


千石が嘘をついていないと証明できるものはなかったし、彼の口ぶりからしてもその情報は明らかに予測でしかなかった。けれどもここでこの腐れ縁の友人が背中を押してくれているのを無下にする気は起きない。小さくこくんとうなずいて、きびすを返して公園へと走った。

本当に亜久津はいた。いつものようにタバコをくゆらせつつじっと座っている。なんと声をかけるべきか、そもそも亜久津はわたしの存在を認識しているのか、それはもうわかるはずもないけれど、あの日のように千石が前を歩いているわけでもない。もうこちらに気付いているであろう阿久津に堂々と歩み寄って、思い切って彼の隣に腰を下ろしてみた。

意外なことに彼は文句ひとつ言わなかった。一度じろりとわたしを見たけれど何も言わない。わたしを見たのだってたったの一度きりで、それからは素っ気なく反対側を向いたままニコチンを吐き出し続けるばかりだ。こちらを見ていないのをいいことに、わたしは亜久津にじりじりと近寄っていき、最終的に背中合わせと呼ばれる体勢で落ち着く。体重を預けてみても彼はやっぱり何も言わなかった。暑い空気がなんだか煙たい。

「…亜久津」

そこはかとなく重苦しい沈黙に耐えかねて名前を呼んでみると、「あ?」という非常に高圧的かつ短い返答が返ってきた、面と向かっていれば飛ばされていたであろうきつい視線にさらされることがなくてよかったと今更ながら実感した。それじゃあどうしてわたしはここで亜久津と座り込んでいるのだろうか。自問してみても自答はできそうになかった。だから頭に浮かんだ別の疑問を素直に吐き出してみる。

「わたしのこと覚えてる?」
「…前にアイツが連れてきた女だろ、知ってる」

千石が女の子を連れてるなんていつものことじゃない。なぜか無意識にそう言い返してしまったらしい。亜久津はぴたりとタバコをふかす手を止めて、それからゆっくりと深いため息をついた。白く濁った煙が視界の端で揺らぐのが少しだけ見えた。

「試合おつかれさま、かっこよかった」

言ってから、ああなるほどわたしはこの一言が言いたくてここにやってきたんだとこれもまた今更ながら実感した。亜久津はもう何も言わない。騒がしい千石と言い争うのも楽しくないわけではないけれど、ほとんど初めて会話した亜久津と背中合わせで座るのもまた悪くないように思えた。



背中合わせの方が落ち着くなんて

title by 1989

なんだか千石がでしゃばりすぎました / 参加させていただきありがとうございました!
(20120512 古森)



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