去年、先輩達は卒業して俺より一足先に高校生になった。中高一貫で同じ学校とはいえ話す機会も減ったからか、そのときはなんとなく先輩達が遠い存在になってしまったような気がした。早く高校生になりたい、先輩達に追いつきたいし追い越したい、そういうやるせない焦りが一年間ずっと淡く付きまとっていた。ふとしたときにそれを思い知らされてどうしようもないことに焦っていた。一年の差がこれほどまで大きいなんて知らなかった。だから自分の卒業式のときは先輩達に追いつけると思うと嬉しくて嬉しくてついにやけてしまって先生からこっぴどく叱られた。その事実に「切原って卒業間際に外部進学する予定の女にフラれててやけくそだったらしいよ」という余計な尾鰭がくっついた噂がしばらく蔓延していた時期もあったっけ。

「…赤也、それで今までの話は聞いていたのか」
「き、聞いてましたよ副部長そんな怒んなくても」
「まったくお前というやつは…たるんどる!」

追いつけたことには追いつけた。テニス部も先輩達もあまり変わらなかった。違ったのは先輩達のテニスの腕前が一年前より格段に上がっていたことくらいだ。交遊関係もさして変わらない。中高一貫でエスカレーター式だし、外部から入ってくる生徒はごく少数しかいないからだ。
みっちり説教され精神的に疲れきった状態で部室を出る。なんで昼休みに副部長に説教されなきゃなんねえんだよ、と地獄耳の副部長に聞こえないようにぼやいた。ああもう次の授業サボってやろ。

サボるなら屋上、というのは俺の中では鉄則だ。漫画の読みすぎかもしれない。うっすら汚れた給水塔によじ登って、その上に座り込んだ。風が強い。髪がぐしゃぐしゃになるなあとは思ったが、女子じゃあるまいしそこまで神経質に考える必要もないなと考えるのを放棄して寝転ぶ。あ、制服汚れた。まあいいや。目を閉じてうつらうつらしはじめたところで、屋上の入り口のドアの蝶番が軋む音が聞こえた。





高校に入学して、少し浮かれすぎていたのかもしれない。柳先輩に「私今年もマネージャーやりますから!」と声高に宣言すると、「高校の男子テニス部は女子マネージャーを採らないという話だったが」とあっさり言われてしまった。それはそれで残念だったなあと思えばいい話であって、さらにわたしを苦しめたのは女子の嫌がらせだった。わたしは中学三年間男子テニス部のマネージャーをやっていて、幸か不幸か男子テニス部のレギュラー陣というのは皆総じてルックスが抜群に良い連中だったのだ。それでマネージャーという近しい立場にいたわたしは学校中の女子からの妬みと恨みをかい、晴れて「男子テニス部マネージャー」でなくなったところで陰湿ないじめがめでたくスタートしたというわけだ。わたしからしてみればまったくめでたくなどないことを、世の女性にはわかっていただきたいものだ。水をぶっかけられたり中庭に呼び出されたり、よくもまあ漫画みたいなことができるなあといっそ感心できてしまうほどワンパターンな嫌がらせだったからまだましだったか。どちらにせよ迷惑なことこのうえない。その女子の魔の手から逃れるべく、というのは授業をサボる言い訳でしかなくて、大嫌いな化学をすっかり投げ出してしまおうとわたしは屋上の扉を開けた。

ギギイと耳に悪そうな音をたてて蝶番が軋む。午前中にざぶりと豪快に水をかけられ一足早い夏気分を味わわされた挙句行きがけにちらっと目に入った仁王先輩への告白シーンのせいでやけに機嫌が悪い。あの人の女の子の振り方は嫌いだ。お前さんのこと好きじゃないんじゃこれから好きになる予定も可能性もないから諦めんしゃい、なんて思ったことさらっと言えるのはいいことかもしれないけど相手の勇気をもうちょっと尊重することはできないのかあの人。からりと晴れた空は春めいていた。コンクリートの床もいい感じに温まっていて、いくら気分がすぐれなくても多少は気持ちよく眠れそうだなと腰を下ろす。すると給水塔についている梯子を誰かが下りてくる音がした。誰だわたしの快眠タイムを妨げようとするやつは。ついつい眉間にしわをよせて振り返ると、そこには見知った顔がいた。





誰だよこっちがイライラしてんのに屋上に来るやつ。給水塔を下りて、どなりつけでもしてやろうかと思ったら、そいつはまさかの知り合いだった。中学の頃は知り合いどころじゃ済まされないくらいの頻度で顔を突き合わせていたやつ。は男子テニス部のマネージャーだった。女とはとても思えないような機嫌の悪そうな顔をしているそいつを見ると毒気を抜かれてしまったような気がした。あーくそ、なんなんだよ今日マジで調子狂うんだけど。

となりに座るとは露骨に嫌そうな顔をした。突風が吹くたびにの柔らかい髪の毛がぐしゃぐしゃに乱れる。はあまりそのことは気にしていないように見えた。「なんだ切原かよ…」が小さくぼやいたのが聞こえたから小突くと、ふわっと甘い香りがした。菓子類とか果物とか花じゃなくて、でもそれに似ていて、なんだこれ。気になって聞いてみる。

ってさ」
「なに」
「香水つけてんの?」
「えー、あー、まあそんなとこ。うちの姉さんが香水ぶちまけて、その片付けしてから来たからさ」
「へえ」

自分で聞いた割に反応薄いなーと言うも大概反応が薄いと思う。表情筋が並の人間より明らかに発達してないし。はスカートが風に煽られるのも気にせず脚を伸ばして立ち上がった。見たら悪いとわかっていてもつい吸い寄せられるようにスカートに目がいってしまう。普通の女子なら何見てんのよーとか言ってめちゃくちゃに言われるところだろうけど、相手はだからそう心配する必要もない。

ー、パンツ見えるぞ」
「下に体育着穿いてるんだからそれでパンツ見えたら凄いわ」
「そういう問題じゃねえだろ」

はいはい目の毒らしいので座りますよとは渋々座り直した。なんだ案外聞き分け良いじゃん。と思ったのもつかの間、今度は不用心にごろんとコンクリートの床に寝転がった。日差しが気持ちいいのうと伸びをする。なんだコイツと言わんばかりの俺の目など気にもしないでは幸せそうな顔だ。ふとその髪の毛が少し濡れていることに気がついた。

、その髪の毛どうした」
「え」

の幸せそうな顔がひきつった。





切原の指がわたしの髪にふれる。こんなことなら髪の毛切ってくるんだった、とロングヘアの自分を呪う。コイツにだけは面倒なことは知られたくないし、たとえ知られても干渉されたくない。理由は単純明快、面倒事がさらに面倒になるだけなのが目に見えているからだ。自分でも顔がひきつっていると思う。今日って本当に最悪な日だ。

「水ぶっかけられた、とか?」

厭らしいほど素晴らしいタイミングで最高の直感を発揮するコイツの謎の才能も考え物だ。だからなんでそうバッチリ的確な答えを出してきちゃうかな君は!えへへと笑ってみるが切原の目は至って真剣だ。これはかわせそうにない。さっきまで軽蔑していた仁王先輩に心の中で助けを求める。こういうときってどうすればいいんですか。切原の眉が段々ひそめられていく。ああ万事休すか。

「…うん、まあ、そんな感じっすね」
「なんだよそれ」

切原はなお疑心暗鬼な眼差しでわたしを見下ろしている。この状況ははっきり言ってやばい。あとめちゃくちゃ怖い。オブラートに包んだ物言いをあとで仁王先輩にきっちりレクチャーしてもらう必要がありそうだ。とりあえずこの場は逃げるしかない。気付かれないように腰を浮かせて、それからダッシュで、走り抜ける!
と思ったらやすやす捕まえられた。そりゃわたしも中学時代は運動部だったさ。運動部ではあったけれども相手があの天下の常勝立海大付属の男子テニス部レギュラーの切原赤也君じゃ勝てるわけがないですとも。いっそすがすがしいほど間抜けにわたしは切原の腕の中に倒れこんだ。切原はにやっと笑って座り直す。ちくしょうなんて反射神経してるんだコイツ…!アホのくせに!こないだのテスト赤点取って追試だったくせに!

「逃げるってことは後ろめたいことでもあったってことか?」
「どうか見逃してください今回だけは姉の命がかかってるんです」
「お前ほんっと嘘へたくそ」
「すんません」
「もういい、で、なんで水なんかかけられたんだよ」

中二で幸村先輩達に頼り切っていた頃の彼と同一人物だとはにわかには信じがたいほどの強い目だった。部長を経験したからこその強さが視線からにじみ出ているとでも言おうか。つまるところ幸村部長のダークマター遺伝子を悪い意味で受け継いだんじゃないかこの人。最悪だ。そっぽを向くと今度は両頬をがっちりと手で押さえられた。に、逃げたい…!






が高校に入ってから女子にいじめられてるって噂を聞いたことがないわけじゃなかった。気にはなったし、なんであんないいやつがいじめられるのかわからなかったし気に食わなかった。それでもとくに詮索しようとしなかったのは、単にクラスが遠いのと、が男子テニス部に入部しなかったからだ。俺達と関わりたくないのかと思っていた。違った。は中学のときと同じように柳先輩に勉強を教わりに行き、仁王先輩にちょっかい出されたり出したりして、廊下を走っては真田副部長に怒鳴られ、ブン太先輩にお菓子をねだりに行っていた。つまり「俺達」ではなくて「俺」と関わりたくなかったんだと俺は気付いた。

でも今こうやっての顔を俺の両手がホールドしているわけで、俺は半分無意識でこうやってしまったわけで、少なくとも俺はコイツと関わりたかったんだなと今更気付かされた。は罰の悪そうな顔はしているものの嫌がってはいない。もしかすると俺のことが嫌いってわけじゃないんじゃないか、とちらっと思う。

「き、切原には関係ない」
「関係あるよ」
「なんで」
「友達じゃねえの、俺達」

ついそんな言葉がこぼれた。は目をぱちくりさせてきょとんとしている。バカきょとんとしたいのはこっちだって。何言ってんだ俺。は間抜け面をやめてしばらく考えて、それから俺の両手を自分の両手で包み込んだ。柔らかくて小さな手だった。無表情がだんだんとにやけ顔になっていく。

「…な、なんだよ」
「ふふふ、それ本気?」
「え」

そのときのはニヤついているというより腹に一物抱えてほくそ笑んでいるようにすら見えた。妙に焦る。それもほんの数秒で、は突然俺に抱き着いてきた。

「え、おま、え?」
「切原くんが素直にそんなこと言ってくれるなんてうーれしーい、お姉さん大喜びよ」

口調こそ軽かったが、が俺にまわす腕にはやけに力がこもっていた。さすがにおかしいと思って髪を撫でてみる。くそ、仁王先輩ならこういうときさらっと慰められるんだろうけど。あいにく俺の頭の中には気の利いた言葉をかけられるだけの語彙が詰まっていない。

、泣いてんの」
「うるさい」
、お前さ」
「何」
「なんで男テニ入らなかったんだよ」
「女子マネ募集してないから」

…なんだよ、俺のは要らない心配だったってことかよ。心の中で小さく拗ねる。は遠慮がちに肩を震わせた。

「切原、男女の友情ってあると思う?」
「あるんじゃね」
「じゃああんたとわたし、友達ね」

彼女はにこりと笑う。の笑顔を見たのはすごく久しぶりなような気がした。友達という単語がいやに照れくさく聞こえて、あいまいな返事しかできなかった。今日は案外悪い日でもないかもしれない。



おそろいのデイドリーム

title by √A




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